その夜、縹は母の傍らで眠れずにいた。
闇市の地下倉庫ではなく、縹がひとつだけ借り続けている小さな部屋——母を寝かせるためだけに存在する、この世界でいちばん静かな場所で、彼はランプの芯を最小限まで絞り、母の輪郭を見つめていた。
透けていた。
もう随分前から透けていたのだが、今夜はその透明さの質が違った。肌の下に走る血管の青さが消えている。骨の影が消えている。ただ、母の形をした空気だけがそこにあって、薄い布団の皺だけが、確かにそこに何かが横たわっていることを証明していた。
縹は膝を折り、床に座り込んだ。
記憶が薄れると、人は透明になる。それがこの世界の理だ。夜空の星座が欠け落ちるように、個人の存在そのものが夜の空気に溶けていく。縹はそれを誰よりも知っていた。知っていたから、売った。他人の記憶を。奪い、買い集め、密かに母の記憶の周囲に積み上げるように商ってきた。記憶と記憶の間に母の欠片を隠して、奪われないように。消えないように。
だが結局、消えていく。
ランプの光が揺れた。微風も吹いていないのに、空気が動いた気がして、縹は顔を上げた。
母の目が、開いていた。
透明な目だった。瞳の色すら薄れて、ほとんど光そのものみたいな色をしていた。それでも確かに縹を見ていた。その視線の重さだけが、まだ現実だった。
「縹」
声が、聞こえた。
声というより、記憶の残滓が空気を揺らしているような、そんな響き方をした。縹は答えられなかった。喉が固まって、ただ母の手を——あの透明な、形だけになりかけた手を——自分の両手で包み込んだ。
何も感じないと思っていた。
ところが。
「……温かい」
母が言った。
「あなたの手、感じる。縹、感じるわ」
縹の目が、歪んだ。
感じる、と母は言った。この世界で存在が消えていくとき、最初に失われるのは触覚だと縹は知っていた。記憶が薄れれば感覚も消える。それが順序だ。なのに母は今、感じると言った。縹の手の温もりを、感じると言った。
「お母さん」
声が裂けた。
縹は母の名前すら呼べなかった。ただ「お母さん」という、子供の頃から変わらない呼び名だけが口からこぼれて、あとは言葉にならなかった。
母は微笑んだ。
透明な顔で、形だけになりかけた唇の端を、確かに上げて、微笑んだ。
そのまま——消えた。
布団の皺が、ゆっくりと平らになった。縹の両手の間に残っていた重さが、霧のように散って、何もなくなった。ランプの光だけが揺れていた。温もりだけが、縹の掌に残っていた。
どれくらいそうしていたのか、縹にはわからなかった。
夜が深くなって、また深くなって、空の端がわずかに青みを帯び始めた頃、縹は立ち上がった。掌を見た。何もない。当たり前に、何もない。だがあの温もりの記憶だけが、皮膚に刻まれたように消えなかった。
縹は部屋を出た。
闇市へ向かった。
その足取りに迷いはなかった。
地下へ続く石段を降り、重い扉を押し開けると、薄暗い倉庫の空気が縹を包んだ。棚に棚に、記憶の欠片が並んでいた。瓶に封じられたもの、布に包まれたもの、小さな鍵のかかった箱に収められたもの——誰かが泣いた夜の記憶、誰かが笑った午後の記憶、誰かが愛した人の顔の記憶。縹が売り物にしてきたものたちが、静かに息をしていた。
縹は倉庫の奥へ歩いた。
火打ち石を取り出した。
手が震えていなかったことが、自分でも意外だった。
最初の火を、棚の端に落とした。
乾いた木材が燃え上がった。記憶の欠片が砕けて、光の粒になって舞い上がった。それは悲鳴のようでもあり、解放のようでもあった。縹は後退りもしなかった。炎が広がるのを見ながら、ただそこに立っていた。
全部。
全部、燃やした。
地上へ出たとき、縹の背後で地下の扉が煙を吐いていた。夜空を見上げた。星座が幾つか欠けて、歪な形になっていた。それでも残っている星が、かすかに光っていた。
縹は空を見上げたまま、低く笑った。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。
翌朝、縹が地図師ギルドの門を叩いたのは、夜明けから間もない時刻だった。
蒼汰が扉を開けた。寝不足らしく目が赤く、だが縹の顔を見た瞬間、何かを読み取ったように黙って道を空けた。
縹は中へ入った。
零花が奥の椅子に座っていた。その視線が縹に触れた瞬間、零花の表情が微かに変わった——縹の中にある何か、言葉にする前の感情の形を、追体験したのだろう。零花は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。それで十分だった。
「お母さんが、消えた」
縹が言った。
声は平坦だった。震えも、絶叫もなかった。ただ事実として、言葉が空気を割った。
「最後に、手の温もりを感じると言って——笑って——消えた」
蒼汰が何か言おうとして、止まった。縹が続けた。
「闇市は燃やした。在庫も、帳簿も、全部」
蒼汰の目が見開かれた。縹はそれを正面から受け止めた。
「私はもう売らない」
静かに、しかし鉄を打ち込むような確かさで、縹は言った。
「今度は取り戻す側に立つ。あんたたちと一緒に」
沈黙があった。
長い沈黙ではなかった。蒼汰がゆっくりと息を吐いて、縹に手を差し伸べた。
「……来てくれてよかった」
縹はその手を見た。自分の掌を見た。母の温もりを感じた場所を。
手を、握った。
零花が立ち上がり、二人の傍に来た。何も言わなかったが、その存在が部屋の空気を少しだけ柔らかくした。縹は零花を見た。零花が縹を見た。記憶の欠片から生まれた少女と、記憶を売って生きてきた男が、初めて同じ地面に立った。
天弦が廊下から現れたのは、そのときだった。
老師は縹の顔を見て、短く目を細めた。悼むような、あるいは何かを確認するような、静かな表情だった。
「よく来た、縹」
老師が言った。
「夜空の鍵を開けるには、もうひとつ必要なものがある。それを話す前に——」
天弦は一瞬、言葉を切った。
「お前の母君の記憶がどこへ行くか、知りたいか」
縹の体が、石になった。
蒼汰が老師を見た。零花が息を呑んだ。
夜空が記憶でできているなら、消えた記憶はどこへ行くのか。縹はこれまで一度も考えたことがなかった——いや、考えないようにしていた。燃やした炎の中に消えたのだと、そう思って終わりにするつもりだった。
だが老師は「知りたいか」と聞いた。
縹は答えなかった。答えられなかった。
答える前に、窓の外で霞鳥の声がした。
夜明けの空を、白い翼が横切った。