蝋燭の炎が、ふいに揺れた。
風はなかった。窓も閉じている。それでも火は細く傾いで、天弦の皺深い顔の上に奇妙な陰影を刻んだ。蒼汰はその揺らぎを見つめながら、老師の次の言葉を待った。喉の奥が、乾いていた。
「夜空は、最初から人工のものだ」
天弦は静かに言った。感情の起伏が、ほとんどなかった。まるで長年胸の中で何度も繰り返してきた言葉を、ようやく声に出したとでもいうように。
「夜宮が三百年かけて設計し、作り上げた記憶の結晶体だ。あの星座のひとつひとつは、自然に生まれたものではない。人の記憶を素材として、精緻に組み上げられた構造物だ。建物と同じように、設計図がある。柱があり、礎石があり、それを支える鍵がある」
零花が、小さく息を呑む気配がした。蒼汰は彼女を見ることができなかった。老師の顔から、目を離せなかった。
「俺は……ずっと、夜空は自然のものだと思っていた。記憶が溜まって、光になって、空に昇っていくものだと」
「そう信じさせるように設計されている。夜宮の意図だ」天弦は目を伏せた。「人が自らの記憶を空へ預けるとき、強制されていると感じてはならない。あくまでも自然な流れ、宇宙の摂理であるかのように感じられなければならなかった。だから夜宮は設計図を隠し、自身の痕跡を消した」
「なぜそんなことを」
「記憶が消えることへの恐怖から、人々を守るためだ」天弦の声に、初めて微かな痛みが滲んだ。「夜宮は見ていたのだ。記憶を失った人間がどれほど壊れるかを。だから作った。星空という器を。記憶を保存し、死後も光として残し続ける、永遠の図書館を」
蒼汰は黙った。否定する言葉が出てこなかった。夜宮の意図を、悪いとは言えなかった。それでも何か——何か、喉の奥に引っかかるものがあった。
「設計図が百年前に盗まれた、と前回あなたは言った」
「ああ」
「それが夜空消滅の原因だと」
「直接的な原因ではない。だが設計図を持つ者が、何らかの方法で星座の消去を行っていると私は考えている。礎石を一つずつ抜き取るように、夜空を解体しようとしている者がいる」
零花がゆっくりと口を開いた。
「それは——夜宮の設計に反することですか」
天弦が零花を見た。老師が零花に向けた視線は、蒼汰がこれまで見たことのない種類のものだった。驚きではなく、ある種の痛ましさだった。
「お前のような存在が、よくぞその問いを立てられる」天弦は低く言った。「そうだ。夜宮は夜空を永続させようとした。だが設計図を盗んだ者は逆のことを望んでいる。夜空を終わらせたい者がいる」
沈黙が落ちた。
蒼汰は自分の手のひらを見た。地図師見習いとして、何百という記憶の断片に触れてきた手だ。他人の喜びや悲しみを写し取り、羊皮紙の上に星として定着させてきた手だ。その手が、今夜、奇妙なほど遠く感じられた。
「天弦師」
蒼汰は顔を上げた。
「俺の白紙のことを、話してください」
老師の口元が、わずかに歪んだ。苦しみのような、赦しを請うような、複雑な形に。
「蒼汰」天弦は蒼汰の名を呼んだ。「お前の白紙は、誰かに消されたものではない」
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
「お前自身が、幼い頃に封じたものだ」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。頭の中で何かが空転した。封じた。自分で。幼い頃に。
「どういう——」
「お前の記憶の中に、夜空の鍵がある」天弦は続けた。淡々と、しかし一語一語を石畳に置くように丁寧に。「夜宮が設計図とは別に、もう一つの安全装置を仕込んでいた。それが鍵だ。夜空の起動と再起動、そして完全な開放を制御できる唯一の機構だ。夜宮はそれを、特定の血筋の記憶として遺した」
「特定の血筋」
「お前の血筋だ、蒼汰」
蝋燭の炎が、また揺れた。今度は大きく。まるで何かの息吹に触れたように。
「俺は、夜宮と——」
「直接の末裔ではない。だが夜宮が三百年前に選んだ継承の系統に、お前の家系は連なっている。代々、鍵の記憶は最も幼い子に受け継がれ、その子がある年齢になったとき、自らそれを封じるように仕組まれていた。外から破られないように。本人が望んだときにしか開かないように」
零花が、そっと蒼汰の袖に触れた。言葉ではなかった。ただそれだけのことが、今の蒼汰には言葉よりも重く届いた。
「俺が、封じた」
蒼汰は呟いた。自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「俺は——覚えていない。そんなことをしたことも、なぜしたのかも、何も」
「封じたとき、お前はまだ六つか七つだっただろう。封印とはそういうものだ。行為そのものも記憶の外に置かれる。だから白紙になる」
「でも——なぜ俺は、封じなければならなかった」
天弦は答えなかった。
その沈黙が、蒼汰には一つの答えのように思えた。老師は知っている。だが言えない何かがある。あるいは、言わないことを選んでいる。
「師匠」蒼汰は声を低くした。「あなたは第二話のとき——消滅報告書を読んで、静かに閉じた。覚えていますか」
天弦の表情が、微かに揺れた。
「俺はあのとき、気にしなかった。でも今なら分かる。あなたはあの時すでに、全部知っていた」
「……ああ」
「知っていて、黙っていた」
「黙っていた」天弦は繰り返した。「許されることではない。分かっている」
「なぜ」
老師は長い沈黙の後、言った。
「お前に鍵を使わせることが、何を意味するか分からなかったからだ。夜空の再起動がお前にとって何を代償とするのか。私には見えなかった。だから——お前が安全だと確認できるまで、言えなかった。言いたくなかった」
それは言い訳だった。同時に、正直な告白でもあった。蒼汰はそれを、怒りで受け取ることができなかった。老師の声の奥に、長年の重みがあった。百年分の沈黙の重さが。
零花が静かに言った。
「代償というのは——鍵を使うと、蒼汰に何かが起きるということですか」
天弦は答えなかった。
今度の沈黙は、先ほどよりずっと長かった。
蒼汰は窓の外に目をやった。夜空が見えた。星座のいくつかが、薄く滲んでいた。消えかけている。あるいは新しく生まれかけている。その判別が、今夜はつかなかった。
自分が幼い日に、何かを封じた。その手の感触も、なぜそうしたかも、覚えていない。だが確かに俺はそれをした、と蒼汰は思った。六つか七つの自分が、何かを守るために、何かを閉じた。
それはどんな気持ちだったのだろう。
怖かったのか。泣いたのか。誰かに言われてそうしたのか、それとも自分で選んだのか。
何も分からなかった。ただ胸の奥に、言葉にならない悲哀が満ちていった。幼い自分への、会うことのできない哀れみのような感情が。
「縹を呼ぶと言っていましたね」
蒼汰は低く言った。自分の声が、ひどく静かに聞こえた。
「設計図盗難の手がかりのために」
「ああ。明日の夜明け前に来るよう、伝えてある」
「分かりました」
蒼汰は立ち上がった。膝が、わずかに震えていた。
「今夜は、少し一人にさせてください」
天弦は何も言わなかった。止めなかった。それもまた、老師なりの誠実さだと蒼汰は思った。
廊下に出ると、零花が後を追ってきた。蒼汰は振り向かなかった。振り向いたら、今にも崩れそうだった。
「蒼汰」
零花の声が、背中に当たった。
「私には、自分の記憶がない。生まれた瞬間から、他の人の感情の欠片しか持っていない。だから——あなたが今感じていることを、私は本当の意味では分からない」
蒼汰は足を止めた。
「でも」零花は続けた。「あなたが幼い頃に封じたものが、あなたを傷つけないことを、私は願っている。これが誰かから借りた感情ではなく、私自身の願いだといいと思っている」
蒼汰はしばらくそこに立っていた。
やがて、空から何かが降りてくる羽音が聞こえた。霞鳥だ、と思った。だが振り向いたとき、廊下の窓の外はもう暗く、何も見えなかった。
ただ夜だけがあった。星座の滲んだ、深い夜が。