夜が、また一枚剥がれ落ちた気がした。

 蒼汰がそう思ったのは、観測塔の最上階から階段を降りながらのことだ。三百段を超える螺旋の石段は、ギルドの見習いたちが「修行の坂」と呼んで半ば冗談めかしていたけれど、今夜ばかりはその名前が笑えなかった。手すりに触れるたびに冷気が指先を伝い、松明の橙色がゆらりと揺れる。その光に照らされた蒼汰の顔には、疲労よりも先に、何か奇妙な引っかかりが貼り付いていた。

 今夜の当番は、夜間記録の照合だった。

 観測塔では、毎夜零時を過ぎると上席地図師が夜空の星座を精密に転写し、前日の記録と比較対照する作業が行われる。見習いである蒼汰の役割は、転写済みの羊皮紙を棚に収め、差分があれば所定の書式に書き留めることだ。地味で、繰り返しで、夜明けまで続く骨の折れる仕事ではあるが、それでも蒼汰は嫌いではなかった。無数の星座が整然と並ぶ書架の前に立つたびに、人間の記憶というものがこれほど多種多様な形をしていることに、素朴な驚きを感じるからだ。

 しかし今夜は違った。

 棚の一角に手を伸ばしたとき、指先が空を掴んだ。あるべき場所に、羊皮紙がない。いや、羊皮紙はある。ただそこに転写されているはずの星座が、白く、まっさらに、消えていた。

 最初は自分の見間違いだと思った。松明の光は揺らぐし、夜間の視力は日中より落ちる。蒼汰は燭台をひとつ取り、紙に近づけた。細い光の束の中で、羊皮紙の表面は滑らかに沈黙していた。そこにかつて描かれていたはずの「夕霞の家族」という星座の痕跡が、まるで最初から何もなかったかのように、消え失せていた。

 蒼汰は棚を端から端まで確かめ始めた。

 十二枚。

 一時間かけて確認した結果、同じ状態の羊皮紙が十二枚あった。すべて過去二週間のうちに転写されたものだ。記録には確かに星座名が書かれているのに、紙面だけが白い。まるで星座そのものが記録の層から引き抜かれたように。

 蒼汰は眉間に皺を寄せながら、差分記録用の書式を取り出した。

 翌朝、報告書を携えてギルドの事務棟を訪れると、受付の中年地図師・壮路(そうじ)は書類をざっと一瞥して、特に表情も変えずに言った。

「ああ、これか。先週も二件来てるよ」

「先週も、ですか」

「星座の自然減衰だ。古い記憶から順に薄れていく現象で、五十年に一度くらい起きる。記録に残ってる」壮路は引き出しからひとつの薄い冊子を取り出して見せた。「心配しなくていい。ギルドの上層部ではもう把握してる」

 蒼汰は礼を言って事務棟を出たが、足が止まった。

 廊下の突き当たり、格子窓から朝の白光が射し込んでいる。その光の中に立ったまま、蒼汰は壮路の言葉を頭の中で転がした。

 自然減衰。

 確かに、そういう現象があることは授業でも習った。記憶の持ち主が亡くなり、その記憶を悼む者も誰もいなくなったとき、星座はゆっくりと夜空から溶けていく。それは悲しいことではあるが、世界の理に沿った、やむを得ない喪失だ。

 だが蒼汰が昨夜見た十二枚の羊皮紙は、ただ薄れていたのではなかった。

 消えていたのだ。痕跡もなく。まるで消しゴムで擦り取ったように。

 しかも——蒼汰は昨夜の記録をもう一度頭の中で並べ直した——消滅した星座は、ばらばらではなかった。「夕霞の家族」「岸辺の子守唄」「鍛冶師と弟子」「三代目の約束」……それらはすべて、夜空の北西の一画に集中していた星座群だ。しかも転写日を見ると、消滅は二日おき、あるいは三日おきに起きており、規則的なリズムを刻んでいた。

 自然減衰に、規則はない。

 蒼汰は昨夜の白い羊皮紙の感触を思い出した。あの冷たさ、あの沈黙。前日の転写紙には確かに存在していた星座が、翌日の転写紙からは完全に失われている。差分が生まれる瞬間は、誰にも目撃されていない。

 廊下の向こうで、誰かの足音が遠ざかった。

 老師・天弦の執務室は、観測塔の中層にある。石造りの扉は重く、節の浮いた木製の机は年代を積み重ね、壁には世代を超えた地図師たちの肖像が掲げられている。天弦が長年この部屋に座り続けてきたことは、机の表面に刻まれた無数の小傷が語っている。

 その机の上に、今朝、一通の書類が届いた。

 ギルド観測部からの正式報告書。表紙には几帳面な文字で「夜空異変記録・第七次報告」と記されていた。

 天弦は眼鏡をかけ、ゆっくりと頁をめくった。消滅した星座の名前が、整然とした列を成して並んでいる。個数、位置、消滅の推定時刻、前後の記録との差分。数値は正確で、観測部の仕事は丁寧だった。

 老師はひとつひとつの項目を静かに目で追った。老いた指が頁の端を押さえ、松明の光が文字の上を滑る。

 最後の頁を読み終えたとき、天弦は深く息を吐いた。

 それから、書類を閉じた。

 音もなく、静かに。

 机の引き出しを開け、書類を中に滑り込ませ、鍵をかけた。立ち上がって窓の外を見る。朝の空は白く霞み、星の一つも見えない。それでも老師の眼差しは夜空を見るときのそれで、遠く、深く、何かを数えるように虚空を渡っていた。

「まだ、早い」

 呟きは誰にも聞かれなかった。

 その夜、蒼汰は一人で写本室に残った。

 許可を取り、過去百年分の夜間記録を引き出した。羊皮紙の束は重く、インクの匂いがした。燭台をひとつ余分に灯し、書架の隅に陣取って記録を並べ始める。

 星座の消滅が始まったのは、いつからか。

 自分の目で確かめなければならなかった。壮路が「自然減衰だ」と言ったとき、蒼汰はそれを否定するだけの根拠を持っていなかった。しかし今は違う。十二枚の白い羊皮紙が、規則的な間隔で、夜空の特定の区域に集中して、痕跡さえ残さずに消えていた。あの事実は、蒼汰の中で小さな棘になっていて、歩くたびに何かに引っかかった。

 記録を遡ること四時間。

 蒼汰は鉛筆を持つ手を止めた。

 目の前の紙に書き出した消滅の日付と位置を、直線で結んでみる。北西の区域から始まった消滅は、徐々に、しかし確実に、夜空の中心部へと向かっていた。しかもその軌跡は、観測塔の真上を目指しているように見えた。

 偶然ではない。

 蒼汰はその紙を四つ折りにして、上着の内ポケットに収めた。立ち上がると、足もとが少し揺れるような気がした。写本室は静まり返り、燭台の炎だけが小刻みに呼吸している。

 そのとき、窓の外で何かが白く光った。

 蒼汰は駆け寄って窓を押し開けた。夜の空気が顔に当たる。見上げると、夜空は星座の光で満ちていたが、北西の一角だけが、まるで布を切り取ったように、漆黒に落ちていた。

 その暗闇の縁を、白い翼が横切った。

 前夜に書庫で見た鳥だ。あの、転写紙に似た質感の羽根を持つ鳥が、夜空の欠落した縁を沿うように飛んでいる。蒼汰は無意識に手を伸ばした。届くはずがないのに。

 鳥はひとつ、大きく弧を描いた。そしてその軌跡が夜空に残った——いや、残ったのではなく、蒼汰にはそう見えた。まるで鳥自身が星座であるかのように。

 翼の先から、一枚の羽根が落ちた。

 石造りの窓枠の上に、音もなく着地した白い羽根は、蒼汰が手を伸ばすより先に、すうっと輝き、そして消えた。

 代わりに残ったのは、羊皮紙に似た薄い光の膜で、その上にひとつの文字が浮かんでいた。

 「問え」

 たった一字。

 光の膜は三秒後に溶けた。

 蒼汰は窓枠を両手で掴んだまま、暗い北西の空を見上げていた。心臓が早く打っている。問え、と言われた。何を。誰に。

 しかし答えはすでに、彼の中の何かがひそかに指し示していた。

 老師に、問わなければならない。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

2

星座の欠落

綾瀬 燈子

2026-05-14

前の話
第2話 星座の欠落 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版