夜が降りてくるとき、星座は生まれる。
それがこの世界の理だと、蒼汰はずっとそう教わってきた。人の心に宿った記憶は、やがて光の粒となって夜空へ溶け出し、同じ色合いを持つものどうしが引き寄せられ、線を結び、星座を形成する。喜びの記憶は青白く瞬き、悲しみのそれは深い橙色に染まる。愛情は金色で、憎しみは——意外なことに——柔らかな紫をしていた。
夜図界の空は、だからいつも賑やかだった。少なくとも、以前は。
蒼汰は羽根ペンを置き、作業台の上の地図から目を離して、窓の外を仰いだ。星暦市の夜空が、観測塔の細い尖頂の向こうに広がっている。今夜も星座はある。「誓いの翼」も「眠れる貝」も、ちゃんとそこにあって、光っている。だが、三ヶ月前に消えた「水引の花環」の座があったあたりには、今もぽっかりと暗い穴が口を開けていた。慣れてしまえば気にならないものだと人は言うが、蒼汰にはどうしても慣れることができなかった。欠けた場所というのは、埋まっていたときよりも、むしろ強く存在を主張するものだと思う。
「蒼汰、ペンを止めるな」
声が背後から降ってきた。老師・天弦が、白い眉の下から蒼汰の手元をのぞきこんでいる。書架と木箱が壁を埋め尽くしたギルドの作業室で、老人の存在はいつも不思議なほど静かだった。音もなく現れて、音もなく去る。気配を殺しているわけでもないのに、蒼汰はいつも気づくのが遅れる。
「すみません。少し、空が気になって」
「星座ならば逃げぬ。地図は逃げる」
天弦は短くそう言って、書架の奥へ歩いていった。蒼汰は苦笑して、改めて手元を見つめた。
今夜の作業は、新規依頼人の記憶採取と、それを地図へ転写すること。依頼人はもう帰った。蒼汰が採取した記憶の原液——透明な小瓶の中に揺れる淡い光——は、作業台の端に置かれている。それを専用の転写石で読み取り、羽根ペンに記憶の輪郭を吸わせ、地図紙の上に描き写す。一つの星座が生まれるまでの、地道な作業だ。
記憶の採取は難しい。相手の心の内側に触れる行為だから、下手をすれば傷つける。天弦がいつも言うことがある。「地図師の仕事は写すことではなく、敬うことだ」と。記憶は誰かの生そのものだから、粗雑に扱えば、星座はゆがむ。ゆがんだ星座は夜空に定着せず、やがて崩れて消える。
羽根ペンを走らせながら、蒼汰は今夜の依頼人のことを思い出した。六十代の女性で、亡くなった夫との思い出を星座に残したいと言っていた。採取のとき、小瓶の中の光は金色だった。ほんの少しだけ、端のほうが橙に滲んでいた。蒼汰にはその意味がわかった。愛情の中に、悲しみが溶けている。どちらが先にそこにあったのかは、もうわからなくなっているのかもしれない。
転写が終わり、蒼汰はペンを置いた。地図紙の上に、小さな星座が描かれている。それが夜空の然るべき位置に登録されるのは、明日、天弦が確認してからだ。今夜の蒼汰の仕事は、ここまで。
作業室の時計が、低く鐘を打った。もう深夜に差しかかっている。
蒼汰は道具を片付けながら、ふと引き出しの中を見た。個人記録帳が入っている。地図師の見習いは全員、自分自身の記憶を記録帳に写す義務がある。いわば、自分という人間の地図だ。幼少期から現在まで、時系列に記憶を転写していくもので、それが地図師としての基礎訓練の一つとされていた。
蒼汰は記録帳を引き出しから取り出し、机の上に置いた。
厚い革表紙を開く。最初の数ページは空白だ。ここに幼少期の記憶が入るはずだった。入るはずだった、と過去形で書くのは正しくない——入るべきなのに、入らないのだ、今も。
羽根ペンを手にして、転写石を幼少期の記憶を収めた小瓶に当てる。毎回そうする。毎回、ペンが何も吸わない。小瓶は透明なままで、光を持たない。蒼汰の幼少期の記憶は、採取しようとするたびに、するりと指の間から零れ落ちるように消えてしまう。記憶がないのではなく——少なくとも、蒼汰にはそう感じられる——何か見えない膜が張られていて、触れることを許されないのだ。
白紙のページが、黄ばんだ照明の下に浮かんでいる。
これがいつから白紙なのか、蒼汰にはわからない。気づいたのは三年前、ギルドに入ったばかりのころだった。他の見習いたちが童年期の記憶を次々と転写していく中で、蒼汰だけが空白のページを前に立ち尽くしていた。天弦にも相談した。老師は「時が来れば開くこともある」と言って、それ以上は何も言わなかった。
それで、蒼汰も深く考えないようにした。
考えないようにした、はずだった。
白紙のページを見るたびに、どこかが静かに軋む。痛みと呼ぶほど鮮明でも、違和感と呼ぶほど淡くもない。ただ、そこに何かが欠けているという事実だけが、確かに存在する。欠けているものの形は、欠けているからこそ、わからない。わからないまま、夜ごとここに座って、白いページを眺める。
記録帳を閉じようとしたとき、窓の外で何かが光った。
蒼汰は顔を上げた。観測塔のほうだ。塔の尖頂のすぐ脇を、白い何かがひらりとよぎった。鳥だ、と思った。この時間に鳥が飛ぶことは珍しい。夜図界では、夜は星座の時間であり、地上の生き物は静まり返るものとされていた。
白い鳥は一瞬だけ窓の外に止まり——蒼汰には、確かにそう見えた。塔の外壁に、羽を畳んで止まり——それから再び夜の闇へと溶けていった。
蒼汰は窓に近づき、外を見た。何もない。空には星座が揺れているだけだ。「水引の花環」が消えた暗い穴も、今夜もそのままそこにある。
気のせいだったのかもしれない。
だが蒼汰の目が確かに捉えたものがあった。鳥が飛び去った後、窓の外側のわずかな出っ張りに、羽根が一枚残されていた。
蒼汰は窓を開け、それを拾った。
思ったよりも長い羽根だった。純白で、どの角度から見ても白い。光に透かすと、ほんのわずかに——見間違いかと思うほどかすかに——古い文字のような模様が浮かんで見えた。地図師が使う転写紙に似た、薄くて緻密な質感。蒼汰は羽根を指でそっとなぞり、眉をひそめた。
鳥の羽根が、こんな手触りをしているだろうか。
「蒼汰」
天弦の声が、再び書架の奥から聞こえた。蒼汰は羽根を手のひらに握り込んだ。なぜそうしたのかは、自分でもわからなかった。見せたくなかったわけではない。ただ、この羽根はしばらく自分だけのものにしておくべきだという、根拠のない直感があった。
「もう上がっていい。明日は早い」
「はい」と答えて、蒼汰はコートを手にした。
羽根を胸ポケットにしまい、作業室の照明を落とす。白紙の記録帳は引き出しの中に戻した。また明日も開いて、また明日も白紙を確認するだろう。それがもう三年続いている。
外に出ると、夜気が頬を刺した。観測塔が頭上に黒くそびえ、その向こうで星座が揺れている。蒼汰は空を見上げながら、歩き出した。
白紙のページのことを考えていた。欠けた星座のことを考えていた。そして——羽根のことを考えていた。
あの鳥は、なぜここへ来たのか。
夜図界に夜風が吹く。星暦市の石畳を、蒼汰の靴音が叩く。どこかの路地の先に、何かが待っているような気がして、蒼汰は一度だけ足を止めた。
夜は静かだった。あまりにも、静かすぎた。