川から風が上がってくる夜だった。
事務所の窓を少し開けると、灯篭型データ端末の青白い光が、水面から滲み上がるように揺れているのが見えた。瀬戸夜依はそれを眺めながら、橋立の件の書類をめくる手を止めた。カイロの残した「光の縫い目」について壱から報告を受けてから三日が経つ。事件は動いていない。いや、正確には、動く方角が定まらないまま淀んでいる。
「夜依さん、これ、食べますか」
背後から声がした。振り返ると、双葉千重がソファの端に正座して、菓子の袋を両手で掲げていた。袋の絵柄は亀の形をした煎餅で、なぜかその亀が笑っている。
「どこで買ったの」
「商店街の角のお店です。百合江さんに教えてもらいました。おいしいって」
千重は事務所に転がり込んで一週間が経つ。記憶を持たない彼女は、最初の二日ほどは視線がどこにも定まらず、声をかけるたびに小さく肩をすくめていた。それが今では、こうして菓子の袋を夜依の鼻先に差し出すくらいには、場に馴染んでいる。
人というのは、案外簡単に居場所を作るものだ。夜依はそう思いながら、煎餅をひとつ受け取った。
「ありがとう」
「えへへ」
千重は嬉しそうに笑った。嘘が下手、という言葉が夜依の脳裏をよぎる。嘘が下手というのは、つまりこういうことだ。感情が顔に先行して出てしまう。喜べばすぐ頬が上がり、困れば眉が情けなく折れ、何かを隠そうとするとき耳の先まで赤くなる。法廷で生きてきた夜依には、むしろそれが奇妙なほど新鮮だった。
廊下の奥から足音がして、稲森壱が現れた。手にタブレットを持ち、目の下に薄い隈を作っている。
「カイロの痕跡、もう少し絞れました。改竄に使われたツールの世代が、三年前から二年前の間に製造されたもので——」
「千重さんが煎餅を買ってきてくれたわよ」
夜依が遮ると、壱は一瞬だけ瞬きした。
「……そうですか」
「食べなさい」
「必要ないです」
「食べなさい」
夜依の声に抑揚はなかったが、千重がすでに袋を壱のほうへ差し出していた。壱は煎餅と千重の顔を交互に見て、ひとつ取った。口に入れて、数秒咀嚼する。
「甘い」
「しょっぱいんですよ」千重が首を傾げる。「どこが甘いんですか」
「砂糖は入っていない、ということですか」
「醤油味です」
「醤油は辛いはずですが」
「そうなんですけど、なんかこれ甘い感じしませんか?」
千重が再び一枚取って食べた。ひと呼吸おいて、「あ」と声を上げる。
「確かに、ちょっとだけ甘いかも。後味が」
壱はその様子を見て、何も言わなかった。ただ、手の中の煎餅をもう一度見下ろした。表情は、相変わらず動かない。しかし夜依は気づいていた。彼の呼吸が、ほんの少しだけゆっくりになったことに。
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夜が更けて、壱はひとりで書類部屋に残っていた。
タブレットの画面には、カイロの改竄痕跡のデータが展開されている。しかし彼の目は時折、画面の外に逸れた。廊下の向こうから、千重の鼻歌が聞こえる。音程が頻繁に外れる、何の曲ともつかない鼻歌だ。
壱は、自分の中で何かが起きていることを、うまく分類できなかった。
他人の記憶に触れる仕事を長くしていると、感情の手触りが薄れていく。悲しみの記憶を解析すれば悲しみのデータが残り、喜びの記憶を展開すれば喜びの波形が画面に映る。それを繰り返すうち、感情そのものが「処理すべき信号」のように思えてきて、いつからか自分の内側に何かが生じても、それを感情と呼んでいいのか判断できなくなっていた。
だから壱は、今自分に起きていることを、データとして整理しようとした。
千重が笑う。すると、胸の辺りに何か軽いものが生まれる。重量で言えば〇・三グラムほどの感覚。色は白か淡い黄色。温度は体温より少し高い。持続時間は、千重の笑顔が消えてから十秒前後。
これは何か。
壱はしばらく考えた。
笑顔、というデータが人の感情に与える影響についての論文を、過去に十二本読んだことがある。脳内のオキシトシン分泌、前頭前野の活性化、扁桃体の安静化——数値として知っていた。しかしそれらのどれを参照しても、今自分の中にある〇・三グラムの感覚には名前がつかなかった。
廊下の鼻歌が止まった。
「壱さん、まだいるんですか」
千重が顔だけ扉から覗かせた。寝間着代わりに着ている、百合江に借りたらしい薄い作務衣姿だ。
「います」
「もう遅いですよ」
「作業があります」
千重は少しだけ考える顔をしてから、部屋に入ってきた。壱の隣に立って、タブレット画面を覗き込む。
「これ、なんですか」
「改竄された記憶の解析データです」
「すごいですね」
「すごいかどうかは——」
「すごいです」千重は断言した。「私には全然わかりませんけど、壱さんにはわかるんでしょう。それってすごいことじゃないですか」
壱は返答に詰まった。「すごい」という語が、賞賛の意味として機能することは理解している。ただ、千重の「すごいです」には、それ以上の何かがあるような気がした。証明できない感覚だったが。
「千重さん」
「なんですか」
「あなたが笑うと、自分の中に〇・三グラムほどの感覚が生まれます」
沈黙が落ちた。千重は壱の顔を見て、それから目を丸くした。
「〇・三グラム」
「概算ですが」
「それって」千重は口元を押さえた。笑いをこらえているのが、夜依でなくても分かる表情だった。「それって、嬉しい、ってことですか」
壱はまた考えた。嬉しい。嬉しい、という語の定義。望ましい状態が実現したときに生じる肯定的感情。しかし自分は千重に何かを望んでいたのか。望む前に生まれていた気がする。
「わかりません」
「わからないんですか」
「正確に分類できない」
千重は今度こそ笑った。こらえるのを諦めたように、くすくすと笑った。耳の先が少し赤い。
「わからなくていいと思います」と千重は言った。「私も自分の気持ち、よくわかってないですし」
「あなたは記憶がないから」
「そうじゃなくても、たぶんそうだったと思います」
根拠のない言葉だった。しかし壱は、その根拠のなさを、珍しく咎める気になれなかった。
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その夜遅く、千重は夢を見た。
川だった。灯京の川ではない、もっと古い、岸に苔のついた川だ。水面に無数の灯篭が浮かんでいる。紙で作られた灯篭で、それぞれの内側に橙色の光が揺れている。夜の川を、光の群れが静かに流れていく。
千重は岸に立って、その光を見ていた。
誰かが隣に立っている。顔が見えない。ただ、その人が何かを言った。声だけが聞こえた。
——これは償いだよ。
千重は夢の中で、なぜかその言葉の意味を知っていた。知っていた、という感覚だけがあって、内容は掴めない。灯篭が一つ、また一つと遠ざかっていく。光が川面に滲んで、溶けて、やがて見えなくなる。
——全部ここに流したんだ。本当のことを。
千重は手を伸ばした。光に触れようとした。
しかし指先が届く前に、目が覚めた。
天井を見上げると、窓から差し込む灯篭端末の青白い光が、ゆっくりと壁の上を漂っていた。川の夢の残像が、まだ目の奥に揺れている。
千重はしばらくそのまま横になっていた。胸の中に、名前のつかない感覚がある。重くはない。ただ、深い。
隣の部屋では、壱がまだ画面を見ているのか、薄い光の筋が扉の隙間から漏れていた。
千重はその光を見ながら、夢の中の灯篭のことを考えた。自分が何を知っていたのか、もう思い出せない。ただ、その光の温度だけが、指の先にまだ残っているような気がした。
川面の光は、今夜も揺れている。