法廷の天井から吊られた灯篭型データ端末が、青白い光をほのかに揺らしていた。午後の陽光は高窓のブラインドに遮られ、灯京第三裁判所の第七号法廷は、まるで水底に沈んだ箱のように静まり返っていた。

 瀬戸夜依は証拠台の前に立ち、手元の端末に視線を落とした。指先だけが、かすかに震えていた。

 ——死者は、死をもって遺言を残した。

 それを理解したのは、今朝の三時のことだった。

 事の始まりは三週間前に遡る。灯京北区の名家・桐島家で当主が急逝し、その「記憶遺産」を巡って子息三人が争う相続事件として持ち込まれてきた。記憶が財産として認められるようになって久しい灯京では、故人が生前に記録した記憶データの所有権を巡る訴訟が後を絶たない。表向きはありふれた案件だった。

 だが故人——桐島 蔵人、享年七十一——の記憶データは、奇妙な構造をしていた。

 「時限記憶」。閲覧者の記憶読取装置に接続した瞬間、あらかじめ設定された条件下でのみ解凍される、暗号化された記憶の層。技術的には違法でも何でもないが、実用する者はほとんどいない。なぜなら、その条件を解読できる者が稀だからだ。

 壱が四日かけて弾き出した解凍条件は、「法廷における証拠提示の瞬間」だった。

 夜依は端末を操作し、法廷の正面スクリーンに接続した。

「裁判長、証拠物件第十七号の再生を申請します」

 裁判長の宇治川が老眼鏡の奥で目を細める。「許可します」

 スクリーンが明滅した。

 次の瞬間、法廷に死者が現れた。

 桐島蔵人の記憶ホログラムは、ひどく老いた男の姿をしていた。白髪が薄く、両手に老斑が浮かぶ。だが眼だけが、恐ろしいほど澄んでいた。青みがかった灰色の虹彩は、何かをずっと見据えてきた者の眼だった。

 傍聴席がざわめいた。相続争いを繰り広げていた子息三人が、それぞれ異なる表情で凍りついた。

 ホログラムの蔵人が口を開いた。

「この記憶が法廷で再生されているということは、わたしはもういない。そして、誰かが本当のことを調べてくれた。ありがとう」

 声は老いていたが、静かな力があった。夜依は眼を細めた。

「遺産争いになどなってほしくなかった。記憶を残したのは、財産として遺すためではない。告発のためだ。灯京北区一帯で展開されている記憶改竄サービス——通称『白鷺』の実態と、わたし自身がその顧客であり、かつ告発者になるまでの経緯を、ここに記す」

 法廷が静止した。

 静止した、というほかない瞬間だった。傍聴席の記者が手元のメモを落とす音が、やけに大きく響いた。

 蔵人の記憶は順を追って語られた。十二年前、彼は自社の不正取引に関わった部下をかばうために、その部下の記憶を改竄することを『白鷺』に依頼した。罪悪感と引き換えに、事件は闇に葬られた。だがその後、『白鷺』は蔵人を手放さなかった。

「脅しではなかった。もっとたちが悪い。彼らはわたしの記憶に触れることができる、という事実そのものが鎖だった。いつでも書き換えられる、という恐怖が、十年以上わたしの喉に絡みついて離れなかった」

 夜依は証拠台の縁を、指先でそっと押さえた。

「だから、死を選んだわけではない」蔵人のホログラムは続けた。「死はただ、来た。肺が、もう保たないとわかった夜、わたしは初めて自由になれると思った。死者の記憶は改竄できない。死は、わたしに残された唯一の安全な媒体だった」

 死は、唯一の安全な媒体。

 夜依の視界が、にじんだ。

 眼に異物が入ったのだと、最初は思った。だがそうではないと、すぐにわかった。まずい、と思った。法廷で泣くなど、十年の弁護士人生で一度もなかった。

 彼女は表情を変えないまま、わずかに顔を伏せた。端末の画面を確認するふりをして、数秒間、眼の奥に力を込めた。傍聴席の誰も気づかなかった。弁護士席の壱も、検察側も、裁判長も、ただスクリーンの死者に釘付けになっていた。

 桐島蔵人の記憶は、「白鷺」の拠点住所、取引記録のデータ断片、そして関与した仲介業者の実名を含んでいた。十年かけて、老いた男が死の直前まで少しずつ記録し続けたものだった。

 夜依は顔を上げた。声は、いつも通りだった。

「裁判長。本件は相続事件ではなく、記憶改竄産業への内部告発として再分類されるべきです。故人の意図は明白です。彼は法廷という場所を、この記憶が開かれる条件として選んだ。すなわち、この記憶は遺産ではなく、証言です。死者の証言として、刑事捜査機関への提出を求めます」

 対面の検察官——今回は蒼川礼司ではなく、若い代理検事だった——が立ち上がり、異議を唱えかけて、口を閉じた。異議の言葉が出てこないのだ。スクリーンの死者はまだそこにいた。老いた眼で、法廷の全員を見ていた。

 裁判長の宇治川が長い沈黙の後、口を開いた。「弁護人の申請を認めます。本件は相続訴訟から切り離し、別途刑事告発案件として灯京捜査局に移送します。相続争いに関しては、本日の審理をもって一時停止とする」

 槌が鳴った。

 傍聴席がざわめきに変わる中、スクリーンの蔵人のホログラムがゆっくりと薄れていった。最後に残ったのは、あの眼だけだった。何かを見続けてきた、灰色の眼。それも消えて、スクリーンは白くなった。

 法廷が終わった後、夜依は廊下の隅に立ち、しばらく動かなかった。

 壱が隣に来た。何も言わなかった。壱はいつも、言葉が必要な瞬間を間違えない。それが、夜依が彼を手放せない理由のひとつだった。

 しばらくして、夜依が先に口を開いた。

「十二年間、怖かったんだろうね。あの人は」

「うん」

「それでも記録した。毎日少しずつ。誰かがいつか解いてくれることに賭けて」

「あなたが解いた」

「わたしじゃない」夜依は首を振った。「あの人が、自分で仕掛けた。わたしはただ、鍵を回しただけ」

 壱はしばらく夜依の横顔を見ていた。

「泣いてた」と、静かに言った。

 夜依は壱を見た。「気づいてたの」

「あなただけが見えてる。法廷でも」

 夜依は小さく息を吐いた。否定も肯定もしなかった。ただ窓の外、夕暮れに染まり始めた灯京の川面を見た。無数の灯篭型端末が水上を漂い、橙と金の光が揺れていた。万灯流しのように見えた。

 死者が灯した光が、川を下っていく。

 ——事務所に戻ると、千重が煎茶を淹れて待っていた。糸村百合江も珍しく事務所に上がり込んでいて、古い木の椅子に腰かけて将棋の本を読んでいた。

「おかえり。勝ったの?」千重が聞いた。

「勝ち負けじゃなかった」夜依は上着を脱ぎながら言った。「あの人が、十二年かけて準備してたことを、ちゃんと届けた。それだけ」

 千重は少し考えてから、「それって、すごいことだね」と言った。

「うん」

 糸村百合江が本から顔を上げた。老いた目が、夜依をじっと見た。

「ひとつ聞いていいかね」

 夜依は百合江を見た。「なんですか」

「あの桐島蔵人という男、知っているかい。灯京創設期の第三次インフラ整備委員会に、末席で関わっていた」

 夜依の足が、止まった。

「わたしが若いころ、一度だけ話したことがある」百合江は静かに続けた。「あの男はあのころから、どこか怯えた目をしていた。今になって、その理由がわかった気がするよ」

 部屋が、しんとした。

 千重が湯飲みを持ったまま、何かを感じ取ったように顔を上げた。その眼が、夜依と百合江の間をゆっくりと往復した。

 百合江が将棋の本を閉じた。

「夜依ちゃん。そろそろ、話す時が来たかもしれない。灯京の最初の夜に、何があったか」

 川面の光が、窓越しに揺れていた。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

27

死者の遺言

朔間 灯子

2026-06-09

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第27話 死者の遺言 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版