朝が来るたびに、事務所は少しずつ変わっていった。
千重が来てからというもの、ずっと埃をかぶっていた本棚の上段まで雑巾が届くようになり、コーヒーメーカーの横には毎日誰かが買ってきたわけでもない花が一輪挿しに飾られるようになった。今日はスターチスの薄紫。昨日はコスモスだった。どこで拾ってくるのかと壱が聞くと、千重は「川のそば」とだけ答えて、それ以上を言わなかった。
灯京の川沿いは、夜明け前から灯篭型端末が水面を漂う。その光の中を素足で歩いているのだろうか、と夜依は思ったが、口には出さなかった。
その日の午前、千重は事務所の一角に積まれた記録ホログラムの整理を任されていた。未処理のまま放置されていた案件補助資料や、旧型端末から吸い出した証拠の断片。水色の光の粒が手のひらに載るたびに、千重は慣れた手つきでラベルを読み、分類棚に収めていく。
「ここのやつ、全部日付順でいいですか」
「依頼人の名前順にしてほしい。日付は二番目の基準で」
「わかりました」
夜依は資料机で書面に向かいながら、視界の端に千重の動きを映していた。記憶もなく、素性もわからない少女が、しかし何の躊躇もなく仕事をこなしていく。不思議な光景だった。記憶がないということは、仕事の覚え方もなければ、過去の失敗も持ち越せないということだ。それなのに千重の動きには迷いがない。
壱はその向かいで古い端末を分解しながら、ときおり千重の方に目を向けていた。彼の目は感情を映さない。ただ観察するように、静かに、繰り返し。
最初の異変はそれから一時間ほど経ったころだった。
「……あれ」
千重の手が止まった。彼女が持っているのは小さな球状のホログラム端末、三年前に決着した詐欺事件の傍証資料だ。本来ならば何の変哲もない。ラベルには被告の名前と裁判番号が打刻されているだけで、記録の中身は建物の間取り図と取引履歴にすぎない。
「どうした」
壱が先に気づいた。
「なんか、知ってる気がして」
「内容を?」
「ちがう、そういうんじゃなくて」千重は端末を持ったまま、指先を見つめた。「触ったとき、なんかこう、わかる、みたいな。体に来る感じ」
夜依は書面から目を上げた。
「前もそういうことがあったか」
「……あった、かも。気にしてなかっただけで」
千重はおそるおそる別の端末を手に取った。今度はすぐに「これはない」と言った。また別のものを取る。「これも、ない」。そして三つ目を手にした瞬間、また動きが止まった。
「これ」
夜依と壱は顔を見合わせた。
壱が立ち上がり、千重の横に移動した。彼は自分のスキャナーを千重の指先にかざす。手のひらほどの薄い板が発する光が、千重の指の先端を青白く照らした。数値が流れる。壱は眉ひとつ動かさずそれを読んだ。
「もう一本、手を出してもらえるか」
千重が右手を差し出す。壱はすべての指を順番にスキャンした。左手も。それから、首の後ろも。
沈黙が続いた。
夜依には、壱が何かを発見したことがわかった。彼の読み取りの速度が、明らかに落ちていたからだ。無感動な男が、処理を噛みしめるように繰り返している。
「壱」
「……指先の皮膚に、記憶受容体がある」
千重が首を傾けた。「きおくじゅようたい」
「記憶ホログラムの信号を直接感知する組織だ。人間の神経系にはない。灯京の記憶端末が発する微弱な電磁パルスに反応して、記録の断片を皮膚経由で受け取る。それがさっき千重が言った『わかる感じ』の正体だと思う」
「それって、普通じゃないんですか」
壱は答えるまでに、少し間を置いた。彼にしては珍しかった。
「普通じゃない。人間には、そういう受容体は存在しない」
千重の表情は、最初は意味を咀嚼しようとしているように見えた。それから、何かを理解した顔になり、しかし何も言わなかった。
夜依は資料机を離れ、二人の方へ歩いた。
「どういう構造をしている」
「設計されたもの、に見える」壱の声は変わらず平板だった。感情を排した観察の声。「自然変異じゃない。精度が高すぎる。受容体のひとつひとつが、灯京標準の記憶ホログラム規格に最適化されてる」
「設計」と夜依は繰り返した。「誰かが作ったということか」
「そうなる」
三人はしばらく、何も言わなかった。
コーヒーメーカーが小さく音を立てた。川の方から、風が一吹きしてガラス窓を揺らした。灯篭端末の光が窓の外で揺れている。何もかもが、一秒前と同じ朝の事務所だった。ただ、その中心にある千重だけが、少し違う何かになっていた。
夜依は千重を見た。千重は自分の指先を見ていた。まるでそこに自分ではないものを見つけたような顔で。
「……設計されてる」と千重は静かに言った。「わたし、誰かに作られたってこと?」
誰も即座には答えなかった。
壱が再びスキャナーを動かし、別の部位にかざした。首の後ろ、耳の裏側、手首の内側。数値が積み重なる。彼は長い沈黙の後、スキャナーを下ろした。
「追加の所見を言う」と彼は言った。「……千重は、人間ではない可能性がある」
無感動な声だった。いつもと同じ、感情の入っていない観察の声。それがかえって、言葉の重さを増幅させた。
夜依の胸の奥で、何かがゆっくりと傾いた。
千重は視線を指先から上げ、壱を見た。壱はデータを見ていた。夜依は千重を見た。千重の顔には、恐れもなく、怒りもなく、ただ静かな困惑だけがあった。まるで、雨が降っているという事実を告げられて、どう受け取ればいいかわからないような、そういう顔。
事務所に沈黙が満ちた。
川から漂ってくる灯篭の光が窓ガラスを透かして室内に揺れた。その光の中で、千重の指先が青白く照らされていた。設計された受容体。記憶ホログラムを皮膚で受け取るために、誰かが丁寧に、精密に組み込んだもの。
夜依は思った。千重は問いかけるように笑う。嘘をつくのが下手だ。花を拾ってきて一輪挿しに飾る。好きな食べ物は甘いものだと言い、壱が分解した端末の部品を面白そうに眺める。記憶がないのに、笑い方を知っている。それは、どこから来たのか。
人間ではない可能性がある。
その言葉が、夜依の頭の中で静かに反響した。
「壱」と夜依は言った。「確認する。断言できるか」
「できない。可能性だ」壱はスキャナーのデータを眺めたまま答えた。「ただ、この構造を持つ存在が以前に記録されたケースが、一件だけある」
「どこに」
壱は少し間を置いた。
「国の研究所の、封印されたデータの中に」
夜依はその言葉の意味を飲み込んだ。昨夜、壱が千重に打ち明けた話。研究所。記憶封印技術。不当に使われたと知りながら止められなかった後悔。封印の鍵は今も壱の手にある。
千重が壱を見た。壱はようやくスキャナーからデータを落とし、千重と目を合わせた。
「……俺は」と壱は言いかけ、止まった。
それだけだった。それ以上は、言葉が来なかった。
千重は何かを待つように、静かに壱を見ていた。嘘が下手な顔で、今は何も笑っていなかった。ただまっすぐに、答えを待っていた。
事務所の窓の外で、川が光っていた。無数の灯篭端末が流れていく。今日も灯京は美しかった。その美しさの底に、何が眠っているかを誰も知らないまま。