秋が深まるにつれ、川の匂いが変わる。夏の間は湿った草と泥の匂いが混じっていたものが、涼気が満ちてくるとともに水だけの純粋な冷たさになってゆく。灯京の川はとりわけそれが顕著で、秋の終わりには川面が黒い鏡のように研ぎ澄まされ、漂う灯篭型データ端末の光を一つ一つ丁寧に映し出す。

 夜依がそのことに気づいたのは、百合江の事務所の窓から外を眺めていたからだった。

 古い木造の建物は、灯京の高層ビル群とは不釣り合いなほど低く構えている。大通りから一本入った路地の奥に埋もれるように建っており、玄関先には枯れかけた鉢植えが並んでいた。夜依がここに越してきて三年になるが、百合江がその鉢植えに水をやるところをいまだ見たことがない。それでも植物たちはしぶとく生き続けていた。

「そんな顔をして立っていても、お茶は冷めるばかりよ」

 百合江の声がした。奥の座敷から、茶の湯気が廊下まで漂ってくる。

 夜依は窓から離れ、廊下を歩いた。古い板が軋む音がした。

 座敷には低いちゃぶ台が一つ、その向こうに百合江が正座していた。八十を超えているはずなのに背筋が真っ直ぐで、その姿勢だけを見れば判事席に座っていた頃の面影が残っている。湯呑みが二つ、湯気を立てていた。

「昨日の話の続きを聞きに来たわけではないでしょうに」

 百合江は夜依が腰を下ろすのを待たず、そう言った。

「壱から聞いたのね」

「あの子は律儀だから」百合江は湯呑みを両手で包んで持ち上げた。「カイロの名前が出たと」

 夜依は答えを返さなかった。返さなくても、百合江には伝わる。それがわかっているから、夜依はここに来る。

「お前さんの冤罪が、三年前の東灯の件と同じ手口だということも聞いた」

「それで」夜依はようやく口を開いた。「何か知っているなら教えてほしい」

 百合江は少しの間、茶を飲んだ。急かす気配を見せない。窓の外で風が動いたのか、ちゃぶ台の上の茶の湯気がゆらりと揺れた。

「灯京が作られた頃の話をしようかしら」

 夜依は眉を動かした。遠回りだと思ったが、百合江の遠回りは大抵そうでない。

「記憶証拠制度が法制化されたのは、今から五十一年前のこと」百合江は語り始めた。「わたしはまだ駆け出しの司法書記官で、あの時代の熱狂を肌で知っている一人よ」

 五十一年前。夜依が生まれるよりも前の話だ。

「当時の灯京は、まだ計画都市の段階だった。旧来の都市の外縁部に建設が始まっていたけれど、最初から『記憶の都市』として設計されていた。記憶をホログラムとして外部化し、それを証拠として司法に用いる——そのアイデアは若い研究者たちが持ち込んだもので、当時の権力者はそれに飛びついた」

「なぜ」

「都合がよかったからよ」百合江は静かに言った。「記憶が証拠になるなら、もはや嘘はつけない。そういう建前で、法の支配を強化できると思われた。人々もそれを歓迎した。真実の都市。灯京の最初のキャッチフレーズはそういうものだったから」

 夜依は黙って聞いていた。

「だがね」百合江の声が、ほんのわずか低くなった。「真実の都市を建てようとした者たちの中に、最初から記憶を操作することを考えていた者がいた」

「最初から」

「最初から、よ」百合江は繰り返した。「制度を作る側の人間が、制度の抜け穴も同時に設計していた。わたしはそれに気づくのが遅かった。ずいぶん後になってから、いくつかの記録の矛盾に気づいて、それを辿ったら——」

 百合江は言葉を止めた。茶を一口飲む。その横顔に、夜依は久しぶりに「老い」を見た気がした。老いというより、疲れの堆積に近い何かを。

「続けてください」

「万灯流しという儀式を知っているか」

 唐突な問いだった。夜依は少し考えてから首を振った。

「名前だけは」

「灯京では毎年秋の終わりに行われる。川に灯篭を流す儀式で、表向きは先祖供養と新年の祈りを兼ねたものだと説明されている」百合江は窓の外を見た。「来週がちょうどその日よ。川に灯がたくさん流れるのを、お前さんもここの窓から見たことがあるでしょう」

「ある」

 確かに見たことがあった。三年前、ここに越してきた直後のことで、夜依はまだ冤罪の傷の中にいた。眠れない夜に窓を開けると、川面を無数の橙色の光が流れていって、それが何か重要なものに見えたけれど何なのかわからなかった。

「万灯流しはね」百合江は続けた。「もともと灯京の創設者たちが始めた儀式なの。先祖供養でも新年の祈りでもなく——償いの儀式として」

「償い」

「そう。誰かが誰かに対して行った、取り返しのつかないことへの償い。灯篭一つに想いを書いて流す。川が受け取って、海へ運んでいく。詳しい由来は公式の記録には残っていないけれど、わたしはその儀式が何の償いのために始められたかを、ある時期から確信を持って疑っていた」

 夜依の指先が、ちゃぶ台の上でわずかに動いた。

「灯京の創設者には」百合江は湯呑みを置いた。「大きな嘘がある」

 短い言葉が、座敷の空気に落ちた。落ちて、沈んだ。

 夜依は百合江の目を見た。老いた目だが、曇ってはいない。裁判官だった頃の鋭さが、奥底でまだ燃えている。

「どういう嘘ですか」

「それをお前さんに教える段階ではまだない」百合江は静かに言った。「教えるには、先に確かめなければならないことがある。わたし一人の記憶では証拠にならない。五十年前の話だからね」

「百合江さん」

「わかっている。焦っているのもわかる」百合江は初めて、ほんのわずかに笑った。「だが、お前さんが今追っているカイロという改竄師と、わたしが五十年間疑い続けてきた灯京の嘘は、根が同じところに繋がっていると思っている。だから今日、この話をした」

 夜依は息を吐いた。静かに、ゆっくりと。

「根が同じ、というのは」

「記憶を操ることを、誰かが最初に許可した。許可どころか、設計した。その設計図は今も生きていて、カイロはその設計図を使っている職人の一人に過ぎない、ということよ」

 夜依の脳裏に、三年前のホログラムが蘇った。あの鮮明な改竄の痕跡。壱が「同一の手口」と言った時の声の温度を思い出した。

「職人が使う設計図には、設計者がいる」

「そう。そしてその設計者は」百合江は静かに言葉を選んだ。「灯京がこの姿になった理由を知っている、数少ない者の一人よ」

 沈黙が落ちた。川の方から、水の音がかすかに聞こえた気がした。

 夜依は立ち上がる前に、もう一度だけ聞いた。

「万灯流しの日に、何かある」

 百合江は答えなかった。答えない、ということが答えだった。

 夜依が廊下に出て、軋む板を踏んで歩いていくと、背後から百合江の声が届いた。

「夜依」

 名前だけで呼ばれることは、めったにない。夜依は立ち止まった。

「灯篭に書く言葉は、本当のことでなくてはいけない。それが、万灯流しの唯一のきまりよ」

 夜依は振り返らなかった。返事もしなかった。その代わり、ほんの少しだけ、足を止めていた。

 玄関を出ると、秋の夜気が頬に触れた。路地の向こうに、川が光を揺らしている。灯篭型データ端末が夜空を漂い、それが川面に落として橙色の染みを作っていた。

 来週、この川に無数の灯が流れる。

 その一つ一つに、本当のことが書かれているとしたら。

 五十年分の本当のことが、川を下っていくとしたら——夜依はその先を考えようとして、うまく考えられなかった。まだ知らないことが多すぎた。知るべき順番が、あるのだろう。

 ポケットの中で端末が振動した。壱からのメッセージだった。

〈カイロに繋がる古い記録を見つけました。見てほしいものがあります〉

 夜依は画面を閉じ、路地を歩き始めた。川沿いの風が追いかけてきた。百合江の最後の言葉が、まだ耳の奥で静かに鳴っていた。

 本当のことでなくてはいけない。

 その言葉が、誰に向けて言われたのか、夜依にはまだわからなかった。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

12

百合江の昔話

朔間 灯子

2026-05-25

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第12話 百合江の昔話 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版