コンベアが鳴っている。

 単調な駆動音は、午前七時から午後四時まで、一秒たりとも途切れることなく続く。白瀬透はその音を子守唄のように聞きながら育った、と言えば大げさかもしれないが、工場棟D区画の検品ラインに配属されて三年が経った今も、あの規則正しい振動は透の呼吸と同期していた。生きているのか機械が、それとも自分がそうなったのか、もはや判別する気にもなれなかった。

 今日の作業は標準的なものだった。午前のバッチでは感情値「穏和:0.73」から「穏和:0.81」の範囲に収まる仮面を三百七十二枚検品し、規格外を十四枚弾いた。昼の休憩は十二分間。配給された栄養ペーストを飲み込み、壁の通知パネルを眺めた。そこには今日の都市幸福指数が表示されていた——94.2。昨日より0.1ポイント高い。透の感情チップが「満足:0.44」という数値を内部ログに刻んだはずだ。それが自分の意志によるものなのか、チップの誘導によるものなのか、透は問うことを、とうの昔にやめていた。

 午後の作業が始まって二時間ほど経ったころ、それは流れてきた。

 コンベアの速度は変わらなかった。光の量も、周囲の工員たちの手の動きも、何も変わらなかった。ただ一枚の仮面が、他の仮面と同じ間隔で、同じ高さで、透の検品台の前に滑り込んできた。

 透の指が、止まった。

 最初に気づいたのは重さだった。持ち上げた瞬間、手のひらに伝わる感触が違う。通常の仮面に使用される合成樹脂は一定の弾力と軽量性を持つが、この仮面はわずかに重く、そして冷たかった。ガラス質に近い何か。透は反射的に裏面を確認した。

 製造番号がない。

 通常、仮面の裏面左上には十四桁の製造番号と、対応する感情カテゴリのコードが刻印されている。それがない。刻印が消えているのではなく、最初から存在しないかのように、その区画がなめらかに空白だった。透は工員証のスキャナを仮面に当てた。

 読み取りエラー。

 もう一度。

 同じ結果。

 透は周囲を見渡した。左隣の工員ムタ・レインは淡々と仮面を台に置き、数値を確認し、次の仮面へと手を伸ばしていた。右側のベルトコンベアの向こうでは、上席工員の藤代が背を向けて端末に何か入力している。誰も透を見ていない。都市のガラス天井から降り注ぐ拡散光が、工場内に均等に満ちていた。影ひとつない、完璧に管理された白昼。

 仮面の表面を、透はようやく正面から見た。

 それは、笑っていなかった。泣いてもいなかった。怒りも、恐怖も、喜びも、嫌悪も、驚愕も、どの表情にも分類できない何かが、その表面に刻まれていた。ガラスのような素材の上に、細い線で何らかの波形が描かれている。感情値のグラフに似ているが、どの感情パターンとも一致しない。それは静止しているのに、見ているうちに揺れているように錯覚させる、奇妙な動性を持っていた。

 既視感が、透の脳の奥で灯った。

 昨日、廃棄ボックスで見た仮面。あの裏面の記号と、何か繋がっている気がした。確信ではない。ただの印象だ。しかしその印象は、通常の感情チップが処理する「印象値」の枠に収まらない種類のものだった。チップは今、何の値も記録していないかもしれない。透には確かめる術がなかった。

 「報告すべきだ」と透は思った。

 規格外品の発見は、直ちに上席に報告し、分析ラインへの転送手続きを取る。それが手順書の第八条だ。透は三年間、第八条に一度も違反したことがなかった。工員証の評価ログには「手順遵守率:100%」という数字が並んでいる。感情チップのデータと合わせて、透の市民評価ポイントは標準値の上位十二パーセントに位置していた。

 それなのに。

 透の右手は、仮面を検品台に置かなかった。

 手のひらの中で、仮面はひんやりとしたまま、静かに重さを主張していた。透は一瞬、自分の指先を凝視した。関節の細い、仕事で少し荒れた指。その指が、今、自分の意志で動いているのか、チップに動かされているのか、それすらわからない。ただひとつだけ確かなのは、胸の中心に今、これまで感じたことのない何かが——

 コンベアが、鳴っている。

 透は仮面をポケットに滑り込ませた。

 動作は一秒もかからなかった。作業着の右ポケットに押し込み、何事もなかったように次の仮面を手に取った。スキャナを当て、数値を確認し、問題なしのスタンプを押す。心拍数が上がっているはずだった。感情チップが異常値を拾い、警告を発するかもしれない。透は意識的に呼吸を整えた。チップに読み取られないよう、感情をフラットに保つ。それもまた、カガミアの市民が学校で教わることのひとつだった——感情は適切に管理し、不要な揺らぎは抑制する。透はその教えを、今初めて、体制への保護として使っていた。

 退勤のサイレンが鳴るまでの一時間と三十分は、透の人生で最も長く感じた時間だった。

 帰路、透は普段通りに歩いた。ガラス張りの通路を、居住区画B-7に向かって。空は人工ドームの向こうに暮れかけ、拡散フィルターが夕陽に似た橙色の光をシミュレートしていた。本物の夕陽を透は見たことがない。ドームの外に出た市民はいない。少なくとも、公式の記録には。

 右ポケットの重さが、一歩ごとに主張する。

 居住棟のエントランスで市民証のスキャンを済ませ、エレベーターで十三階へ。自室の扉を開ける際、指紋認証のパネルが一瞬だけ「感情値確認中」という表示を出した。透は息を止めた。チップのログが「平静:0.62」を示したのか、それとも何か別の値が記録されたのか。扉は、静かに開いた。

 部屋の中は整然としていた。カガミアの居住区画は全て同じ規格で設計されており、透の部屋も例外ではない。白い壁、白い床、最低限の家具。唯一の窓はドームの内壁に向いており、そこに映るのは別の棟のガラス面が反射した光だけだ。鏡の中の鏡、合わせ鏡の街。どこを見ても、自分の歪んだ影が見える。

 透は机の前に座り、作業着のポケットから仮面を取り出した。

 テーブルランプの白い光の下で、仮面を改めて見た。昼間より、その奇妙さが際立つ。ガラスに近いような透明感を持った素材が、光を内側に溜めているようだった。表面の波形は、今も微かに揺れて見える。透は指先でその線をなぞった。つめたい。なめらかな。そして、どこかに刻まれた溝が、指紋の形を覚えるように、透の指先に吸いついた。

 「お前は、何だ」

 声に出したつもりはなかったのに、言葉が漏れていた。誰かに問いかけているのか、仮面に問いているのか、それとも自分自身にか。透には分からなかった。ただその問いは、チップが記録する「疑問値」などというカテゴリには絶対に収まらない種類のものだと、透は確信していた。

 引き出しを開ける。文具と、配給の栄養補助剤と、工員手帳が入っていた。その奥に、仮面を置いた。引き出しを閉める。

 静寂が戻った。

 コンベアの音は、もうここには届かない。

 それなのに透の耳の奥で、何かが鳴り続けていた。あの波形に似た、規則から外れた、名前のない振動が。

 透は目を閉じた。感情チップが、今夜の就寝前ログを記録しているはずだった。「平静:0.58。特記事項なし」。そんな数字が、どこかのサーバーに積み重なっていく。

 だが引き出しの中には、番号のない顔が、眠っている。

 明日もコンベアは鳴る。透は手順書通りに仮面を検品するだろう。感情チップは適切な範囲で動き続けるだろう。カガミアの幸福指数は今日も更新されるだろう。

 ただ一枚だけ、廃棄されるはずだった顔が、透の机の中で息をしている。

 その事実が、静かに、確実に、透の何かを変え始めていた。

硝子の都市と百の仮面

3

廃棄された顔

御影 澄架

2026-05-15

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第3話 廃棄された顔 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版