アルマが去ったあと、工場には奇妙な静けさが残った。

 称賛の言葉は空気に溶けたが、その残滓だけが漂い続け、透は仕事台の前に座ったまま、自分の手の甲をぼんやりと眺めていた。仮面の型を取るために使う石膏が、指の皺に白く入り込んでいる。こんな細部まで設計に組み込まれているのだろうか、と透は思った。自分の指の、この不規則な皺さえも。

 工場を出たのは日没管理時刻の十七分後だった。ドームの天井パネルが橙から深藍へと段階的に切り替わり、カガミアの夜が始まる。ガラス張りの壁面が夕光を食い尽くすように反射し、透は自分の影が七方向に伸びるのを一瞬だけ確認してから、足を地下への降下路へと向けた。

 零に会いに行くつもりだった。

 アルマの目のことを話したかった。あの瞬間、執政官が透を見た刹那の、ほんの一秒にも満たない認識の閃き。それが何を意味するのか、零ならば何か知っているような気がした。根拠はなかった。ただそう感じた。感情チップが数値化できない種類の、直感と呼ぶべき何かが、透を地下へと引き寄せていた。

 しかし零は、いなかった。

 いつもの場所——廃棄された水処理施設の外壁沿い、剥落したタイルが月面のクレーターのように窪んだ一角——に、人の気配は微塵もなかった。空気が違う。零がいるときの空気には、言いようのない密度がある。存在そのものが周囲の空間を押しのけているような、あの感覚。それが今夜は完全に欠落していた。

 透は壁に手を触れた。冷たかった。

 「零」

 声に出すと、廃墟の空洞がそれを吸い込んで、返事のかわりに遠い水音だけが戻ってきた。

 次の場所へ移動した。零が時折姿を見せると聞いていた、旧時代の地図に「第九配電所」と記された廃屋の付近。そこにも誰もいなかった。崩れかけた扉の隙間から覗いた室内には、錆びた機械の骨組みが暗闇の中で沈黙しているだけだった。

 透は三箇所を回り、一時間半をかけ、それでも零の影すら見つけられなかった。

 諦めて戻る途中、礎老人の居場所に立ち寄ったのは、半ば衝動的な選択だった。

 礎——正式な名前を持たない、あるいはもはや名前を必要としない老人——は、地下の最も深い層に自分だけの空間を作っていた。かつては何かの貯蔵庫だったらしい石造りの部屋に、旧時代の書物と、意味の分からない機械部品が、秩序とも混沌とも取れない配置で積み上げられている。老人はいつもその中心に、化石のように静止していた。

 今夜も礎はそこにいた。

 「零を探しています」と透が言うと、老人はすぐには答えなかった。手元に広げていた古い紙の束から顔を上げ、透を見た。その目の奥に、何かが一瞬だけよぎる。

 「零は消えることがある」礎はやがてそう言った。「定期的に。それが零の存在の仕方だ」

 「知っています。でも」

 透は言葉を探した。何が違うのかをうまく説明できなかった。ただ確かに感じていた。今回は違う、と。

 「今夜は、空気が違います。零がいないんじゃなくて、零が——」

 消された、と言いかけて、透は口を閉じた。

 その言葉の重さに、自分自身が耐えられなかったからかもしれない。

 礎は透を見続けていた。老人の表情は普段、何も読み取れないほど平坦だ。長年地下に生きてきた者の顔は、感情の起伏を表に出すことを、どこかで学習しなくなる。しかし今夜の礎は——透にはそう見えた——黙り込んでいた。答えを選んでいるのではなく、答えを持っていないために黙っていた。

 その沈黙が、どんな言葉よりも透を震わせた。

 「礎さん」

 「——寝ろ」

 老人は視線を紙の束に戻した。「今夜は何もできない。明日になっても、お前にできることは限られている。それでも今夜よりはましだ」

 突き放すような言葉だったが、透はその中に、礎が隠そうとしている何かを感じた。恐れ、とは少し違う。もっと古い、長い時間をかけて積み重なった類の感情——予感と呼ぶべき何か。

 透は礎の部屋を出て、地下の通路を一人で歩いた。

 足音が壁に反響する。カガミアの地上では、足音すら管理されている。歩行速度と歩幅のデータが蓄積され、逸脱した動きは自動的にフラグが立つ。しかし地下では、透の足音は透だけのものだった。それがいつもなら、かすかな解放感をもたらした。今夜はただ、孤独だった。

 零のことを、透はどう思っていたのだろう。

 問いは不意に浮かんだ。仮面工場に戻るべき時刻が迫る中、透は立ち止まって、その問いを正面から見つめようとした。

 零は謎だった。初めて遭遇したときから、透は警戒していた。断片的な言葉を囁いては消える存在を、信じるべき理由はなかった。鏡花も漣も、零については慎重な態度を取っていた。

 それでも透は、地下を一時間半歩き回った。

 零の言葉を聞きたかった。アルマの目の話を、聞いてほしかった。零ならば受け取ってくれると思った——透が言葉にできない部分まで含めて、すべてを。

 それは何と呼ぶべき感情なのか。

 感情チップは今夜の透の内部データを記録し続けているはずだ。焦燥、不安、探索行動に伴う身体的疲労。それらの数値が積み重なり、管理省のどこかのサーバーに送られている。しかし透が今感じているものは、そのどれとも少しずつずれている気がした。渇望に触れて以来、透の中には名前のつかない感情の領域が少しずつ広がっていた。チップが記録できない場所。

 零が初めてそこに踏み込んできた存在だった、と透は思った。

 零は透に、問いを与えた。答えではなく、問いを。それは一見すると冷たい行為のように見えたが、透は今になって気づく——問いを与えることは、相手を一人の人間として扱うことだ、と。答えを与えることは、時に相手を容器として扱うことになる。

 アルマが市民に与えるのは、常に答えだった。安全、安心、秩序、目的。それらは精巧に設計された答えであり、問いの余地を埋め尽くすものだった。

 零は違った。

 透は歩き続けた。地上への昇降路が見えてくる。蛍光灯の光が、白く冷たく降り注いでいる。

 そのとき、透は何かに気づいて立ち止まった。

 壁だった。昇降路の手前、透が毎回通り過ぎている古いコンクリートの壁。何の変哲もない、染みと落書きに覆われた壁面。しかし今夜、その一点に——ほんの小さな傷がついていた。新しい傷だ。表面のほこりが削れて、下の灰色が剥き出しになっている。

 透は顔を近づけた。

 傷は、意図的なものに見えた。細い、しかし確かな線が、三本。並行ではなく、微妙に角度が違う。

 記号か、文字か。あるいはただの傷か。

 透にはわからなかった。しかしその傷跡が、零の残したものだという確信が、根拠なく胸に宿った。

 ならば零は消えたのではない——まだここにいる。別の形で。

 透は傷を見つめながら、自分の指先でそっとなぞった。冷たいコンクリートの質感が、指腹に刻まれる。

 零、と透は声に出さずに呼んだ。

 地下の静寂はそれでも答えなかった。しかしその沈黙の質が、一時間前とは違う気がした。無ではなく、息をひそめた何かが、その沈黙の裏にある。

 透は立ち上がり、昇降路に踏み込んだ。

 明日、鏡花に話す。漣にも。

 そしてもし零が本当に「処理」されたなら——透の中で、何かが決定的に固まりはじめていた。それはまだ言葉の形を持たなかった。しかし確かに、そこにあった。アルマに称賛された日の夜に芽生えた対抗意志が、零の不在を燃料として、静かに、しかし確実に熱を持ち始めていた。

 都市の光がドームに乱反射する夜の中で、透は一人、地上へと戻っていく。

 壁に残された三本の傷が、暗がりの中でひっそりと、誰かの帰りを待っていた。

硝子の都市と百の仮面

34

零の消失

御影 澄架

2026-06-15

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第34話 零の消失 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版