朝のチャイムが鳴る前から、工場の空気は違った。
透はそれに気づいた最初のひとりだったかもしれない。金属の棚に並ぶ未完成の仮面たちが、いつもより白く冷たく光って見えた。換気口から流れ込む循環空気の匂いが、かすかに甘い。消毒液に混ぜられた鎮静剤の濃度が上がっているとき特有の匂いだと、漣がいつか教えてくれた。上の判断で、感情チップの出力が下げられている証拠だ、と。
何かが来る。
透は作業台の前に座り、磨き布を手に取った。型番D-77、標準市民用の「平静」仮面。曲線の計算された頬のラインを、番手の細かいやすりでなぞる。無心に、正確に。しかし指先の感覚がどこかに浮いていた。渇望のかけらが、胸の底でひっそりと目を覚ましている。
扉が開いたのは、昼の休憩時間の十分前だった。
音もなく、というのは正確ではない。むしろ音が過剰だった。足音と、革靴の硬質な響きと、随行員たちが規則正しく床を打つ拍子。工場長の黒沢が小走りで飛び出していくのが見えた。透の向かいで作業していた同僚の女が磨き布を落とし、慌てて拾い直した。
アルマだ、という声を誰も出さなかった。それでも工場内の全員がわかっていた。
白いコートだった。カガミアの街並みを閉じ込めたような、乱反射する硝子の光を吸収しながら輝く純白。背が高く、肩幅は細く、歩くたびにコートの裾が空気を整然と押しのけた。仮面は金のふちどりを持つ「慈愛」。カガミア公式映像に映るのと寸分たがわぬ造形。頬の高い位置に微笑みの皺を刻んだデザインは、市民なら幼年期の教育から刷り込まれている。
執政官アルマが、仮面工場を視察している。
透は視線を作業台に落とした。磨き布を動かし続けた。D-77の表面を、一定のリズムで、一定の圧力で。しかし心臓が耳の奥で音を立て始めていた。恐怖、と呼ぶほかない感覚だった。それは禁忌の感情の震えではなく、もっと原始的な何かだった。巨大なものの前に立つ生き物の、本能的な萎縮。
アルマの一行は工場の北側から順に進んでいた。工場長の黒沢が説明を添え、随行員が記録装置を構える。アルマは作業員の前で立ち止まり、首を傾け、温かみのある声でひとこと二言を交わす。その度に相手の顔が緊張と喜悦の入り混じった色に変わるのを、透は視界の端で捉えた。
近づいてくる。
透は呼吸を整えた。渇望が胸の底でかすかに脈打っている。漣の言葉が脳裏をよぎる。「感情チップは読まれている。ただし表層だけだ。深部まで掘られたことはまだない」。だから今、自分は平静でなければならない。数値の上で。表面の上で。
ただし、それだけでいいのか。
問いが浮かんで、沈んだ。
「こちらが現在最も稼働率の高い区画です」
黒沢の声が、透の真後ろで止まった。
透は振り向かなかった。仮面を磨き続けた。背中に視線が当たる感覚は、比喩ではなかった。物理的な圧として肩甲骨の間に張りついてくる。
「あなた」
声は柔らかかった。糖分を含んだ水のように、耳の中に滑り込んでくる。透はゆっくりと顔を上げた。
アルマが立っていた。
距離にして三歩。金のふちの「慈愛」が、真っ直ぐ透を見ていた。いや、正確には仮面が向けられていた。仮面の奥にある目が、こちらを向いていた。
透は立ち上がろうとした。規則では上位者の来訪には起立して礼を示すことになっている。しかしアルマは片手を静かに持ち上げ、「そのままで」と言った。
一瞬があった。
それは本当に一瞬だった。アルマの頭が、ほんの数ミリ、横に傾いた。微笑みの皺が、ほんの一拍、止まった。随行員たちは記録装置を構えていた。黒沢は横で硬直していた。工場内の他の誰も、その静止を見ていなかったかもしれない。
しかし透には見えた。
アルマが透を見て、止まった。
「あなたは良い仕事をしている」
声は次の瞬間、元通りの温かさを取り戻していた。アルマはD-77を手に取った。透の作業台の上から、完成間近の仮面を。滑らかな指先が、透が磨いた曲線をなぞる。
「丁寧だ。力のかけ方が均一で、歪みがない」
称賛だった。紛れもない。随行員たちが記録している。黒沢が安堵と得意の混ざった顔をしている。工場内の数人が振り向いていた。
透は答えた。「ありがとうございます」と。声は平らだった。チップが記録する喜悦の数値は、おそらく適正値に収まっていた。
だが、その時。
透の知覚に何かが起きた。
渇望が関係しているとは思わなかった。感情管理省に向かう計画のことを考えていたわけでも、鏡花の言葉を反芻していたわけでもない。ただ、アルマの仮面を見た。仮面越しの目を見た。そして「良い仕事をしている」という声を、耳の中で聞いた。
空虚だった。
慈愛の仮面は精巧だった。微笑みの角度も、声の温度も、視線の柔らかさも、すべてが完璧に設計されていた。透が何年も磨いてきた仮面の中で最も精度の高い部類だと、職人的な感覚が告げた。
しかしその奥に、何もなかった。
温かさを模した声の背後に、温かさがなかった。称賛の言葉が意味する感情が、そこには存在していなかった。D-77を持つ指先は仮面を「評価」していたが、その評価の中に透という人間は含まれていなかった。透は素材だった。良質な仕事をする作業員という素材。都市という設計図の中の、精度の高いパーツ。
鏡花がかつて言った言葉が、今になって骨に刻まれた。
「あの人は人を愛しているんじゃない。設計を愛しているの」
透はアルマの目を、仮面越しに見つめた。それは一秒に満たない時間だったかもしれない。しかしその中で、透は何かを決定した、というより、何かが静かに定まった。恐怖はまだあった。圧倒されるような存在の前に立つ、あの萎縮は消えてはいなかった。
それでも、その下に、別の何かが生まれていた。
炎と呼ぶほど激しくない。熾火のような、小さく、しかし消えない温度。対抗意志、などという言葉を透は知らなかった。感情管理省が教育カリキュラムから削除した概念のひとつだった。
ただ透は思った。
この人と、いつか向き合う日が来る。
アルマはD-77を作業台に戻し、踵を返した。一行が移動を再開する。随行員の靴音が遠ざかる。黒沢が安堵の息をついた。隣の同僚が「見た、今の?執政官直々に声かけられた、すごいね」と囁いた。透は頷いた。「ああ」と短く返した。
工場内の空気が、少しずつ元の温度に戻っていく。換気口の匂いはまだ甘い。チップが感情を記録し続けている。
透は再び磨き布を取り上げた。D-77の表面を、一定のリズムで磨き続けた。
その指先の下で、仮面は何も言わなかった。しかし透には聞こえる気がした。零の声が、どこか遠い場所から、囁いている。
―バンクには、もうひとつの扉がある。
扉の先に何があるのかを、透はまだ知らない。しかし今日、もうひとつのことを知った。アルマは透を見た。仮面の奥で、一瞬止まった。
それはつまり、向こうも何かを感じた、ということだ。
認識された。
その事実は恐怖であると同時に、奇妙なほど透の背筋を伸ばした。見えない場所で行われる戦いではなくなった。透という存在が、アルマの設計図の外で、確かに立っている。
磨き布の動きを止めないまま、透はひとつだけ深く呼吸した。