朝のチャイムが七棟の天井に反響して消えるまで、白瀬透は目を閉じていた。
ペルソナ・ラボ第七棟。全長二百メートル、幅三十メートルのフロアは、ガラスと白銀のパイプで構成された消毒済みの世界だ。窓の一枚一枚が精密に計算された角度で外光を反射し、どこを見てもきらきらとした均質な輝きが満ちている。影のない空間。陰翳というものを徹底的に排除した設計。透はここで三年間、毎朝この光の中に立ち、自分が光そのものになっていくような感覚を覚えてきた。それが心地よいのか、それとも何か大切なものが溶けていくような感覚なのか、仮面のセンサーが「平静」の数値を保ち続ける限り、その問いは浮上する前に静かに沈んでいった。
検品ラインが動き始める。
コンベアの上を流れてくるのは、整然と並んだ仮面たちだ。乳白色の楕円。ゆるやかに隆起した頬の稜線。表情の雛形は七種類と定められている。〈喜〉〈哀〉〈平静〉〈熱意〉〈安堵〉〈思慮〉、そして最も使用頻度の高い〈調和〉。市民はその日の業務内容と感情管理省の割り当てに従い、朝に適切な仮面を選択する。透が毎日装着しているのは〈平静〉だ。工場労働者に推奨される標準モデル。
透の仕事は、完成した仮面がスペック通りであるかを確かめることだった。専用の検品器に仮面をはめ込み、センサー精度、感情抑制レベル、素材の均質性を数値で確認し、合格品にはスタンプを押す。不合格品は廃棄ボックスへ。作業そのものは単純で、一時間に百二十枚の処理が標準ノルマとされている。
「おはよう、シロセくん」
隣の検品台から声がした。水瀬ハルだ。年は透より二つ上の二十四歳。肩のあたりで切りそろえた黒髪に、今日は〈熱意〉の仮面を装着している。頬の上部がわずかに持ち上がり、眼孔の縁に勢いを示す赤みが差し込まれたデザインだ。感情管理省の評価では、〈熱意〉を選択した日は生産効率が平均十二パーセント向上するとされていた。
「おはようございます」と透は答えた。
「今日も七棟はフル稼働だって。新しい居住区ができるんでしょ、三十二番区の北側に。入居者分の初期セット、今月中に納品しなきゃいけないんだって」
「そうですか」
「六千セットだよ、六千。〈平静〉と〈調和〉だけで三千枚以上。肩がこりそう」
ハルは明るい声でそう言いながら、慣れた手つきで検品器に仮面をはめ込んでいく。カチリ、という小さな音。数値確認。スタンプ。次の仮面へ。その所作は水が流れるように滑らかで、透はいつもそれを横目で見ながら、自分の動作との違いを測るともなく測っていた。ハルの仕事は速いが、透の仕事は、おそらく丁寧だった。
丁寧、というのは透自身の言葉ではなく、以前の上司がそう言ったのを覚えているだけだ。「白瀬は丁寧すぎる。均一でいい。一枚一枚に時間をかけるな」と、叱責に近い口調で。
だが透には、どうしても一枚一枚が同じに見えなかった。
データ上の数値は同一だ。素材の純度、曲面の角度、センサーの感度、すべて規格通り。しかし光の当たり方によって、仮面の表面にわずかな揺らぎが生まれることがある。鋳型から外れる際についた、ほんの微細な引き跡。あるいは冷却工程での収縮差が作り出す、一ミリにも満たない稜線の揺れ。そういったものを透は指の腹で感じ取ってしまう。均一な海の中に浮かぶ、名もなき島のような個性。誰の顔にも当てはまるように設計された仮面が、それでも完全には同じになれない理由が、そこにある気がした。
チャイムが三度鳴り、上司の伍堂が朝礼のために台に上がった。
伍堂は五十代の男で、感情管理省から表彰された経験を持つベテラン管理職だ。いつも〈調和〉の仮面を着けており、その声は穏やかで、聞いているとじわじわと眠くなるような一定のリズムを持っていた。
「本日も皆さんには最高品質の仮面製造に従事していただきます。ここで作られた一枚一枚が、カガミアの秩序を支える礎です」
工員たちは静かに頷く。透も頷く。
「完璧な均一性こそが平和の礎。皆さんはその礎を担っている。個人の感情が仕事に混入することのないよう、センサーの確認を怠らず、ノルマ達成を目指してください。以上です」
短い訓示が終わり、ラインが再起動する。透は次の仮面を手に取った。
今日の〈哀〉モデル。コンベアから流れてきたそれを検品器に載せながら、透はふと手を止めた。哀しみの仮面は、七種の中で最も微妙な設計を要求される。口角をわずかに引き下げ、眼孔の縁に藍色のコーティングを施し、それでいて「過度な絶望」を示さない抑制されたラインを保たなければならない。感情管理省の規定では、〈哀〉の感情指数は一・二から一・八の範囲に収めるよう定められている。泣くことは許可されているが、泣きすぎることは逸脱だ。
数値は正常。スタンプを押す。
透はその仮面が箱に納まるのを見送りながら、朝、あの老婦人の目を思い出した。仮面の奥で、何かが揺れていた。仮面が示す感情とは別の、制御されていない何かが。それを見た瞬間、自分の胸の奥で小さな火花のようなものが散った気がしたが、チップはそれを即座に鎮めた。
午後になって、透は初めて廃棄ボックスの存在に、正確には、その位置に気づいた。
廃棄ボックスはラインの端、搬出エリアとの境界に置かれた大きな灰色のコンテナだ。不合格品がそこに落とされていく。毎日のことで、透もその音を当然のように聞き流してきた。しかし今日、休憩のために通路を歩いていた透は、そのコンテナが想定より奥まった場所に設置されていることに初めて気づいた。壁に沿って、わずかに死角になるように。
不思議なことだ、と透は思った。廃棄品など誰も見る必要がない。なのに、なぜ死角に置かれているのか。
何気なく近づいて、縁に手を置いて中を見た。
割れた仮面が積み重なっている。鋭利に砕けたものもあれば、ひびが走っただけのものもある。〈喜〉の仮面が割れると、その断面は笑みとは似ても似つかない無表情を曝け出す。当たり前のことなのに、透はそれを見て、喉の奥で何かが引っかかるような感覚を覚えた。
その時だった。
コンテナの底のほうに、完全な形を保ったまま廃棄された仮面が一枚あることに気づいた。傷もなく、割れてもいない。明らかに不合格品ではない形状をしている。ただ、その仮面の裏側、チップを埋め込む接合部のすぐ脇に、工場の刻印とは違う記号が刻まれていた。
手作業で、細い針のようなもので刻まれたと思われる、小さな文字列。製造番号とは全く異なる、意味不明の羅列。
透は思わずその仮面を手に取った。
七種のどのモデルにも属さない、その仮面の表面は完全な無表情だった。喜びでも哀しみでも平静でもない、何も示さない白い楕円。透はそれをしばらく見つめてから、誰かに見られていることに気づいて、素早くコンテナの中に戻した。
振り返ると誰もいなかった。ガラスの壁だけが、透の姿を何重にも反射していた。
午後の作業に戻りながら、透は指先に残る感触を確かめるように、密かに手を握った。仮面の裏に刻まれていた文字列の一部が、まだ目の裏に浮かんでいる。製造番号ではない。管理コードでもない。それはどこかで見た気がする、しかしどこで見たのかを思い出せない、奇妙な既視感を伴った記号だった。
センサーが反応した。
数値上は〈平静〉のまま。だが何かが、皮膚の一枚内側で、きらきらと輝きながら燃えていた。