夕暮れ時のカガミアは、いつも血のような赤さで燃える。

 ドームの頂点から差し込む人工の夕陽が、ガラス張りの建物たちに乱反射して、街全体が巨大な万華鏡と化す時間帯。市民たちは決まってその光の中で足を止め、感情チップが記録する「審美的感動」の数値を規定値まで満たしてから、それぞれの帰路につく。透もかつてはそうしていた。立ち止まり、光を受け、データを満たし、歩く。それだけだった。

 しかし今日の透は、立ち止まれなかった。

 第一工場第三ラインを出た瞬間から、何かが違っていた。

 背中に刺さる視線の質が、いつもとは異なる。監視カメラの機械的な眼ではなく、もっと肉体的な、意志を持った何かが、透の後頭部を焦がしていた。工場の扉に刻まれた「P-LAB/SECTION 0」の文字が頭を離れないまま帰路についた透は、第七区の生活路に差し掛かったところで、さりげなく反射面を確認した。ガラスの都市は、その気になれば天然の鏡として使える。

 いた。

 三十メートル後方。標準的な市民服に身を包んだ男が二人。歩調が透と完璧に同期している。普通の通行人であれば、これほど精密に間隔を保ち続けることはない。彼らの仮面は感情の起伏をほとんど示していなかった――チップで感情を抑制している証拠だ。執行官か、あるいはその補佐要員。

 透の胸の奥で、何かが冷えた。恐怖ではない。もっと澄んだ、鋭い何か。

 (鏡花に教わったことを使う)

 思考が、驚くほど静かに結論へ辿り着いた。

 仮面スワッピング。感情管理チップの出力を一時的に書き換え、別の市民IDの感情値パターンに偽装する技術。鏡花が透の仮面の内側に施した改造の、最も危険な機能だった。「緊急時以外は絶対に使うな」と彼女は言っていた。「使えば必ずログが残る。それを消す時間が必要だから」。

 今がその緊急時でなければ、いつがそうだというのか。

 透は角を曲がった瞬間、仮面の顎の裏側にある微細な突起を、舌で押した。

 世界が、一瞬だけ歪んだような気がした。

 チップが書き換わる感覚は、自分の心臓が他人のリズムで打ち始めるような、奇妙な疎外感を伴う。透の感情出力は今、第九区在住の市民・オガタ・レンという人物のパターンを模倣している。中年男性、感情偏差値は平均より若干高め、職業は資材管理士。まったく透と接点のない、ありふれた一市民。

 透はオガタ・レンとして、ガラスの街を歩いた。

 二つの影は、次の角で立ち止まった。しばらくして、別の方向へ散った。

 追跡が解けるまでの数分間、透は自分が誰であるかを忘れそうになった。チップが発する感情のノイズが、頭の中でオガタ・レンという見知らぬ人間の残像を描き続ける。彼が昨日感じた軽い満足感。先週の食事で覚えた舌触りの記憶。透は慌てて意識を自分の内側へ引き戻した。

 (俺は白瀬透だ)

 それだけが、今の自分を繋ぎ止める錨だった。

   *

 鏡花の隠れ家に辿り着いたのは、人工の夜が始まってからだった。

 透の報告を聞いた鏡花は、しばらく何も言わなかった。素顔のままで——昨夜から彼女はもう仮面をつけていない、少なくとも透の前では——彼女の表情は複雑な感情の層を重ねていた。安堵と、それを打ち消すような険しさと。

「スワッピングのログは消した。今夜中に処理したから、向こうには届かない」

「ありがとう」

「礼を言う前に聞け」鏡花の声が低くなった。「透、あなたが工場の前で立ち止まったのは何時だった」

 透は記憶を辿った。朝の出勤時。七時十二分頃、扉の刻印に気づいて、二、三秒足を止めた。それだけだ。

「二、三秒だ」

「その間に、誰かとすれ違ったか」

 沈黙。

 透の脳裏に、一つの顔が浮かんだ。ハル。同じラインで働く同僚の少女。人懐っこい笑顔が特徴的な、透よりも三歳ほど年下の工員。あの朝、ちょうど透の隣を通り過ぎていった。

「ハルが——」

「さっき漣さんから連絡が入った」鏡花は透の言葉を遮るように言った。「今日の昼過ぎ、感情管理省の職員がラインに来た。ハル・セナを連行していった」

 部屋の空気が、凝固した。

「理由は」

「周辺人物の関係者調査。名目はそれだけ。でも」鏡花は一度目を閉じた。「本当の理由は、あなたが扉の前で止まったこと。その時、隣にいたハルの感情チップが、微細な共鳴反応を記録していた。禁忌の感情の残滓に、彼女が触れたとシステムが判断した」

 透は、何も言えなかった。

 (俺が、ハルを——)

 後悔という感情が、音もなく透の内側を満たしていった。鋭い刃のような種類の後悔ではない。じわじわと浸透する、水のような後悔だった。ハルは何も知らない。禁忌の感情など関係ない。ただあの朝、透の隣にいただけだ。それだけで彼女は連れていかれた。

「私も同じ経験をした」

 鏡花が、静かに言った。

「七年前。私がペルソナ・ラボにいた頃、隣の被験者が逃亡を試みた。私はただ、その人の顔を見ていた。それだけで、共犯者として扱われた」彼女の声に感情の揺らぎはなかったが、だからこそその重さが伝わってきた。「カガミアのシステムは、関係性そのものを罪と見なす。繋がることが、すでに違反なんだ」

「ハルは無事なのか」

「今のところは、事情聴取の段階だと思う。漣さんが監察官の立場で情報を取れるよう動いている。ただ——」

 鏡花は言葉を切った。

「もし彼女のチップに、禁忌感情の残滓が一定値以上記録されていたなら、再調整施設に送られる。記憶の一部が消去される」

 透は椅子に腰を落とした。両手が、自分の膝の上でかすかに震えていた。

 軽率だった。

 扉の刻印を見つけた興奮に飲まれて、立ち止まってしまった。周囲への注意を怠った。その三秒間が、ハルの記憶を奪うかもしれない。その事実が、石のように透の胸に沈んでいく。

「透」

 鏡花が、透の目の前に膝をついた。

「罪悪感を持つことは、間違いじゃない。でも今は使え。後悔を、次の行動の燃料にしろ」

 透は彼女の顔を見た。素顔の鏡花。仮面のない彼女の目には、感傷も慰めもなかった。ただ、真っ直ぐな炎のような何かがあった。

「ハルを取り戻す方法は、あるのか」

「漣さんが動いている。それと——」鏡花は立ち上がり、作業台の引き出しから小さな端末を取り出した。「今夜、零から接触があった」

 透の息が、一瞬止まった。

「何と言っていた」

「直接会いたいと。透と、二人で」鏡花の表情に、初めて迷いのような色が差した。「零が直接会うと言うのは、私の知る限り初めてのことだ。何かが、動き始めている」

 人工の夜がカガミアを閉じ込めていた。ドームの内側で、百万個のガラス片が闇を反射し、無数の歪んだ透の姿を映し出している。どれが本当の自分なのか、もはや透には分からなかった。

 ただ一つだけ分かることがあった。

 もう、立ち止まれないということだ。ハルの連行が証明した。この都市では、立ち止まることさえ誰かを傷つける。動き続けるしかない。たとえその先に何が待っていようとも。

 透は拳を握り、顔を上げた。

硝子の都市と百の仮面

24

追跡の影

御影 澄架

2026-06-05

前の話
第24話 追跡の影 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版