鏡よ、鏡。お前の奥にいるのは、誰だ。
白瀬透が毎朝その問いを声に出すことは、ない。ただ、洗面台の上の銀縁の鏡と向かい合う三十秒間、彼の視線はいつも同じ場所に吸い寄せられる。仮面の、縁のあたり。皮膚とプラスチックが溶け合う境界線。そこに指先を這わせると、かすかな段差がある。自分の顔と、自分ではないものの、微細な継ぎ目が。
西暦二一八七年、午前六時〇〇分。
カガミアの朝は、光で始まる。
人工ドームの天頂部に埋め込まれた三万二千枚の採光パネルが一斉に輝度を上げると、都市全体がまるで息を吸うように白く膨らむ。ガラス張りの建築群はその光を受け、乱反射させ、増幅させ、またどこかへと投げ返す。縦にも横にも斜めにも走る光の軌跡が交差し、重なり、打ち消し合い、また生まれ直す。住民たちはこの現象を「黎明の祝福」と呼ぶ。政府がそう名付けたからだ。透はこれを、迷宮と呼ぶ。声に出したことは、一度もないが。
六畳の居室に斜めの光が差し込み、壁面に無数の菱形を描く。透はベッドの縁に腰かけ、枕元の小さな引き出しを開けた。透明なケースの中に、今日の仮面が収まっている。型番〈PL-04/平静・標準〉。感情管理省が全市民に週ごとに支給する、政府公認の感情調整チップ内蔵型フェイスマスクだ。素材はポリカーボネートと有機樹脂の複合体で、装着すると皮膚と分子レベルで接着し、内蔵センサーが表情筋の動きをリアルタイムで読み取る。喜びが規定値を超えれば抑制信号が走り、怒りの兆候を検知すれば鎮静ホルモンが皮下に微量注入される。悲しみは「非効率な感情消費」として記録され、翌週の仮面プログラムに反映される仕組みだ。
カガミアの市民は、自分の感情を自分で所有しない。
それは百年前、都市の創設とともに定められた根本原則であり、パンフレットには「感情の最適化による恒久的平和の実現」と記されている。透が生まれた時にはすでに当然の秩序として存在していたから、疑うという発想そのものが、長らく透の中に芽吹かなかった。
仮面を手に取る。薄い。けれど重い。
両手の親指を引き出しのフチにかけながら、透はもう一度だけ鏡を見た。今この瞬間だけ、彼は素顔だ。くぼんだ目の下に薄い隈。乾いた唇。感情の読めない、しかしそれゆえに何かを隠しているようにも見える顔。これが白瀬透という人間の、本来の輪郭のはずだった。
仮面を、装着する。
かちり、と小さな音がして、顔の中心から外縁へ向かって接着が広がる感触がある。センサーが起動し、こめかみのあたりがわずかに温かくなる。鏡の中の顔が、一瞬揺らいで、元に戻る。今度は、平静だ。
朝食は、政府配給の栄養ブロックをひとつ。水を二〇〇ミリリットル。歯を磨き、支給品の作業着に着替え、エレベーターで地上階へ降りる。透の居住ブロックは第七区画の中層棟、二十三階。エレベーターの鏡面ドアに、平静な顔をした男が映る。誰でもあり、誰でもない顔が。
外に出ると、光の迷宮が本格的に動き始めていた。
大通りには通勤する市民の列が続いている。一定の間隔を保ち、一定の速度で歩く人々。その顔はすべて仮面に覆われ、型番こそ違えど、どの表情も同じ穏やかさで統一されている。喜んでいない。怒っていない。悲しんでいない。ただ、在る。呼吸をして、足を動かして、目的地へと向かっている。
透は列に加わり、歩き始める。
仮面工場は第七区画の東端にある。徒歩で約二十分。透は毎朝この道を歩く。六年間、ほぼ一日も欠かさず。道沿いの建物はすべてガラス張りで、通りかかるたびに自分の姿が映る。正面から、斜めから、ときに二重三重に反射して、無数の透が並んで歩くように見える。その全員が、平静な仮面をつけている。
その朝、透はいつもと違う感覚を覚えた。
何が違うのか、すぐには分からなかった。景色は同じだ。市民の列も、光の角度も、ガラスの反射も。なのに何かが、かすかにずれている。靴底のアスファルトの感触のような、ほとんど気のせいとも言えるくらいの微差が、透の内側の、仮面では届かないどこかに引っかかった。
視線を上げると、向かいから歩いてくる老婦人と目が合った。〈PL-04〉より上位の型番らしき仮面をつけた、背の低い女性だ。彼女はすれ違いざまに、透を見た。ただ見た。それだけのことだが、透はその一瞬に、妙なものを感じた。
老婦人の仮面は、確かに平静を示している。センサーが正常に機能しているなら、感情管理省のシステムにも「異常なし」と記録されているはずだ。しかしその目が。仮面の縁から覗く、二つの目が。平静ではない何かを、ほんの一瞬だけ、透の方へと向けた気がした。
気のせいだ、と透は思う。
そう思いながらも、足が少しだけ遅くなる。
仮面工場が見えてきた。第七区画で最も古い建物のひとつで、外壁は強化ガラスと鉄骨の複合構造。内部では毎日三千枚以上の仮面が製造され、カガミア全域に供給される。透の担当は最終検品ラインだ。完成した仮面を一枚ずつ手に取り、センサーの起動テスト、外装の傷の確認、型番の刻印照合を行う。単純作業だが、精度が求められる。一枚でも不良品が出荷されれば、その市民の感情管理に支障をきたす。体制の根幹に関わる仕事だと、入社時に説明された。
工場の前に着いた時、透はふと立ち止まった。
出入り口の横、ガラス張りの壁面が朝の光を受けて白く燃えている。その表面に、透自身の姿が映る。平静な仮面をつけた、二十四歳の工員が。
しかし今朝に限って、その反射の中に、何か余分なものが見えた気がした。透の輪郭の少し後ろ、影のようなものが、ほんの一瞬、確かに在って、次の瞬間には消えていた。
振り返る。誰もいない。
列を外れた市民はいないし、路地もない。ただ均一に歩き続ける人々の流れと、光と、ガラスと。
透は視線を壁面に戻す。そこには今、自分だけが映っている。平静な仮面が、平静に、彼を見返している。
(気のせいだ)
そう結論付けながら、透はなぜか、その言葉の軽さに、かすかな不満を感じた。
不満。
その単語が脳裏を横切った瞬間、こめかみの温度がわずかに上がった。仮面のセンサーが反応し、鎮静信号が走る。透の内側で何かが静まり、元の水面に戻る。
工場の扉を押し開ける。
白い光の中に、今日の平静が始まる。
透は歩き続ける。自分の感情が今、どんな形をしていたのかも知らないまま。仮面の奥で、消えたはずの問いが、まだかすかに、燃えていることにも気づかないまま。