待ち合わせ場所は地下三層、廃管理区画の隅にある旧浄水ポンプ室だった。透は漣に渡された手書きの略図を片手に、錆の浮いた鉄扉の前で立ち止まる。地上のガラス建築が乱反射させる光は、ここまでは届かない。かわりに、腐食した配管の滲みが天井に奇妙な染みを作り、古い水の匂いが空気に溶けている。
扉を押すと、蝶番が低く唸った。
室内には小さなランタンが一つ、コンクリートの台座の上に置かれていた。その光の輪の中に、二人の人間が座っていた。
漣庸介は、昨日と同じ監察官のコートをきっちり着込んでいる。だが今日は徽章を外していた。省のロゴが入った金属片がないだけで、彼の印象がずいぶんと変わって見えた——あるいは透がはじめて、そのコートの下にいる人間の輪郭を見ようとしているからかもしれない。
もう一人は、仮面を三枚重ねていた。
鏡花だった。
今日の一番外側の仮面は、白磁に細い青い模様が入ったものだ。透が工場で量産する標準型とは異なる、手仕事の痕跡が残る面。その目孔から覗く視線が、扉を開けた透を射る。
「遅い」と彼女は言った。声には感情の起伏がなかった。
「二分だ」と漣が苦笑いをした。「鏡花、君は時間に関してだけ異常に正確だな」
鏡花は答えなかった。透に目線で着席を促すだけだった。
透はランタンの光の届く端、二人から等距離になる位置に腰を下ろした。三角形のテーブルが出来上がる。誰も口を開かない数秒間、浄水ポンプの残骸が軋む音だけが満ちた。
透はその沈黙の中で、二人を見比べた。漣と鏡花——この二人が旧知であることは、漣が昨日、透に告げている。詳しくは教えなかった。どこで会ったのか、いつから知っているのか、どんな形で繋がっているのか。だが今この場の空気が、説明よりも雄弁に何かを語っていた。漣が鏡花を「君」と呼ぶ自然さ、鏡花が漣の小言を無視する慣れ——長い時間をかけて摩耗した関係性の質感が、そこにはあった。
「始めましょう」と鏡花が言った。台座の上に、薄い金属製の板を置く。表面に細かな文字が刻まれていた。「私の持っている情報を先に出す。廃棄仮面の横流しについて」
透は姿勢を正した。
鏡花の話はこうだった。彼女が闇で請け負う仮面の不正改造——その素材の一部は、工場の廃棄ラインから流れてくる。表向きは破砕処分されるはずの仮面が、処分記録だけを残して現物は消える。その量が、過去三年で急増している。
「廃棄仮面には感情チップの初期データが残っている場合がある」と彼女は続けた。「本来は完全消去されるはずだが、消去工程を省略して横流しすれば、旧データごと市場に出回る。誰かが意図的にそれを集めている」
「集めて、何に使う」と透は聞いた。
「感情のサンプルだ」漣が引き取った。「チップに残った感情データは、生の記録だ。管理省が把握していない、制御前の感情の痕跡。それを誰かが蒐集している」
透の胸に、じわりと冷たいものが広がった。
「アルマが」と彼は呟いた。
二人は否定しなかった。
次に漣が板を出した。二十年分の腐敗記録の抄録だ。昨日透に見せたものより、さらに絞り込まれている。中にひとつ、透が見落としていた項目があった。「感情廃止実験・第七次」という記載だ。
「第七次、と書いてある」と透は言った。「これは……一度目ではないということか」
「そうだ」漣は低い声で答えた。「私が二十年かけて突き合わせた結果、百年前の感情廃止計画は、カガミア建設と同時に行われた〈第一次〉に過ぎない。それ以降、ほぼ十五年周期で繰り返されている。怒りが廃止された。悲嘆が廃止された。嫉妬が廃止された。毎回、市民は気づかない。仮面の新モデルと同時にリリースされる感情チップの更新プログラムとして、静かに刷り込まれる」
透の口の中が、乾いた。
自分たちは、定期的に削られてきた。百年をかけて、少しずつ、気づかないように。
「七つの感情が廃止されたと言われている」と鏡花が言葉を継いだ。「だが私が解析した廃棄仮面のデータには、七種類以上の感情の痕跡がある。正確に言えば、九つか十か——それ以上かもしれない」
その言葉の重さが、ランタンの光を押し潰すように部屋に満ちた。
透はしばらく何も言えなかった。七つというのが、既に偽りだったとすれば。廃止された感情の数が分からないとすれば。自分たちが今感じていると思っているものの、どれが本物で、どれが残された残骸に過ぎないのか。判断する基準そのものが、すでに削られているかもしれない。
「アルマの一族について、私が持っているものを出す」
鏡花が三枚目の板を置いた。今度は画像データだ。ランタンにかざすと、古い建築図面が浮かび上がった。カガミア建設以前の、この土地の記録。そこには都市の中心部、現在アルマの執政府がある場所に、別の建物が描かれている。
「研究施設だ」と鏡花は言った。「カガミア建設の二十年前から存在する。アルマの曾祖父が設立した、感情工学の研究機関。都市建設とともに地下に埋没したとされているが——」
「今も稼働している」と漣が遮った。「私は一度だけ、その存在を示す内部文書を見た。五年前のことだ。一週間後には文書ごと消えていた」
透は二人を交互に見た。
「なぜ今まで、二人で動かなかった」
静寂が落ちた。
漣が先に口を開いた。「私には証拠を集める手段があったが、外へ出す回路がなかった。内側から動けば、すぐに消される」
鏡花は少し間を置いた後、「私には理由があった」とだけ言った。それ以上は語らなかった。透は追及しなかった。その「理由」の輪郭が、彼女の過去——政府の実験体だったという疑惑——と繋がっているような気がして、今は聞くべきではないと感じた。
「透、君が加わった意味はここにある」と漣が言った。「工場の内側にいる人間が必要だった。廃棄仮面の流通経路を辿るには、製造ラインに近い者でなければ入れない場所がある」
「俺が、入口になる」
「扉だ」と鏡花が言い直した。「あなたは扉になる。私たちはその先に進む」
透は自分の手を見た。仮面の型を取り続けてきた手だ。他人の感情を収める器を作り続けてきた手。それが今、別の何かのための手になろうとしている。
三本の糸が、ゆっくりと一本に撚られていく感覚があった。廃棄仮面の横流し、十五年周期の感情廃止計画、アルマの研究施設——それぞれは断片だったものが、テーブルの上で繋がり、輪郭を持ち始める。まだ全体像は見えない。だが何かが、確かにそこに在る。
ランタンの炎が微かに揺れた。
「一つ、聞いていいか」と透は言った。「零のことだ」
鏡花の仮面の奥で、わずかに気配が変わった気がした。漣の表情も、一瞬だけ硬くなった。
「零について、二人は何かを知っている」
沈黙が答えだった。
「いつか話す」と漣が言った。その声には、今まで聞いたことのない重さがあった。「だが今夜ではない。今夜は、最初の一手を決める」
透は頷いた。押すべき時と、待つべき時の区別が、少しずつだが分かってきている。零への疑念は、胸の奥に仕舞っておく。ただ、二人が零の名を聞いて見せた反応の意味を、透は静かに確かめ続けるだろう。
三人は深夜まで話し合った。最初の行動計画の骨格が、コンクリートの床に手書きで描かれていく。
ランタンの光が揺れるたびに、三つの影が壁に映った。重なり、離れ、また重なる。まるで三枚の仮面が、互いを確かめるように向き合っているようだった。
透はふと思った——自分たちが今やろうとしていることは、仮面を剥がすことだ。だが、剥がした先に何があるのかを、まだ誰も知らない。
それでも手を止める理由は、もうなかった。