休憩所の蛍光灯は、いつも片側が微妙に点滅している。誰も修理を申請しない。申請という行為そのものが、不満という感情データを記録されるリスクを伴うからだ。だから工員たちは毎日、ちらちらと瞬く白い光の下で紙コップの代替コーヒーを飲み、何も見えていないふりをして過ごす。
白瀬透もそうだった。今日まで。
彼は壁際のベンチに腰を下ろし、コップを両手で包んでいた。液体はとうに冷めていて、口に含む気にもなれない。頭の中では、鏡花の声が繰り返し反響していた。――完全には戻らない。
古い仮面の副作用で開いてしまった感覚の扉は、蝶番が歪んだドアのように、もう完全には閉じられないのだと彼女は言った。ときに他者の感情が色として滲み込んでくる。隣で同僚が疲労を溜め込んでいれば、視界の端が鈍い灰色を帯びる。誰かが笑いを押し殺せば、乾いたオレンジが一瞬だけ空気に滲んで消える。
今、透の目には何も映っていなかった。感覚は凪いでいる。それが却って不安だった。
人が近づいてくる気配がした。
工場内の足音には独特のリズムがある。床材がガラス系の素材で出来ているため、歩き方の癖がそのまま音になって伝わる。同僚の誰かではない。もっと重く、しかし意図的に抑えられた足音だった。
「白瀬透さん」
低い声が、透の名を呼んだ。
顔を上げる。そこに立っていたのは、初めて見る顔だった。中年の男で、感情管理省の制服――濃紺に細い銀のラインが入った上着――を着ていた。仮面は標準的な監察官用の白磁、表情を中性化するように設計されたもので、瞳だけが仮面の縁から覗いている。その瞳は、奇妙なほど穏やかだった。
透は反射的に背筋を正し、コップを膝の上に置いた。心臓が緊張で一拍飛ぶ。監察官が工場の休憩所にいる。それだけで充分すぎる異常事態だった。
「あなたに、話があります」
男は透の隣、一席分の間隔を空けてベンチに腰を下ろした。座り方に、不思議な疲れがあった。体制の人間というより、長い坂道を登り続けた者の疲れ。
「私は漣 庸介という者です。感情管理省、第四監察部に属しています」
透は何も言わなかった。言葉が出てこなかったというより、どんな言葉を選ぶべきかを全身で計算していた。
「安心してください」と漣は続けた。「私はあなたを逮捕しに来たのではない」
その台詞は、むしろ透の警戒を一段引き上げた。逮捕しに来ていない人間が、わざわざそう言う必要はない。だとすれば、この男には別の目的がある。
「……何の用ですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。感情を殺す訓練は、生まれた瞬間から始まっているのだ。
漣は周囲を一瞥した。休憩所には他に三人の工員がいたが、誰もこちらを見ていない。見ていないふりをする訓練も、皆等しく積んでいる。
男はコートの内側から、薄い記録媒体を取り出した。カガミア規格のデータプレートだが、表面に公式のシリアルナンバーが刻印されていない。非公式のものだ。
「これを見てください。一分でいい」
透は躊躇した。受け取るという行為そのものが、記録されるかもしれない。しかし漣の瞳に宿る色が、透の拡張した感覚に触れた。ほんの微かに、深い紺青。それは恐怖ではなく、長年にわたって熟成された、静かな決意の色だった。
透はプレートを受け取った。
起動すると、テキストと数値のログが展開された。日付は二十年以上前から始まっている。感情スコアの改ざん記録、市民の強制的な記憶書き換えの件数、上位執政官への報告と実際の数値の乖離――。透は読み進めながら、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
「二十年、記録し続けてきました」
漣の声は静かだった。誇るわけでも、嘆くわけでもない。ただ事実を告げる声。
「感情管理省の内部から見える腐敗は、市民には決して届かない。私は届けようとしてきた。しかし独りでは限界がある。届ける先がなければ、記録は記録のままで終わる」
「なぜ、私に」
透はプレートを返しながら問うた。この男が自分を選んだ理由が、まだ見えなかった。仮面工場の一工員が、なぜ標的になる。
「あなたが渇望に触れたからです」
その言葉に、透の全身の血が一瞬止まった。
「……それを知っているということは」
「あなたを監視していたわけではない」漣は首を振った。「むしろ逆です。私は、渇望の反応を示した市民のデータを省内から意図的に消してきた。いくつかの記録を、ね。完全に隠すことはできないが、目立たなくさせることならできる」
透は黙って男の横顔を見た。仮面の白磁越しにでも、その言葉の重さは伝わった。この男は二十年間、体制の内側に立ちながら、体制の目を欺き続けてきた。
「あなたが鏡花と接触していることも、ある程度は把握しています」
今度こそ、透は言葉を失った。
「彼女を知っているんですか」
「名前と、おおよその動向だけ。詳細は意図的に調べていない。知りすぎれば記録に残る。私が持てる情報には、自分で限界を設けている」
その言い方に、透は奇妙な誠実さを感じた。全てを知っているわけではない、と最初に言う人間を、透はこれまで見たことがなかった。カガミアでは、知識は権力だ。知識があると見せることも権力だ。だからこそ誰もが何かを知っているふりをする。
この男は、知らないことを隠さない。
「信じろと言いたいわけじゃない」と漣は続けた。「信じるには根拠が必要だし、根拠を積み上げるには時間がかかる。ただ、今日ここで伝えたかったことは一つだけです」
漣はベンチから腰を上げ、制服の裾を整えた。立ち去る前の、最後の一言のために全身を落ち着かせるような、静かな所作だった。
「あなたが外から裂け目を見つけたなら、私は内側から押し広げることができる。それだけです」
透は何も答えなかった。しかし今度は、言葉が出ないのとは違った。言葉にするには、まだ形が定まっていない何かが、胸の奥でゆっくりと輪郭を持ち始めていた。
漣は一礼し、足音を立てて休憩所を出て行った。蛍光灯がまた点滅した。コップの中のコーヒーはすっかり冷め切っていた。
透はしばらく動けなかった。
渇望に触れた。鏡花に出会った。そして今、体制の内部に二十年の記録を持つ男が現れた。これは偶然ではない、という確信が静かに沈んでいく。何かが動き始めている。透を中心に、あるいは透を使って、何かが。
彼は立ち上がり、冷えたコップをゴミ箱に捨てた。
その瞬間、視界の端に色が滲んだ。深い、深い紺青。漣が残していった感情の残滓なのか、それとも今、自分自身の内側から湧き上がってきたものなのか、透には判別できなかった。
ただそれは、恐怖ではなかった。
工場に戻る廊下を歩きながら、透は一つの問いを抱えていた。漣が二十年間記録し続けたものと、鏡花が仮面の裂け目から見てきたものと、透自身が渇望によって開かされた感覚は、それぞれ同じ一つの真実の断片なのではないか。
そしてもし、そうだとしたら。
零は、それを最初から知っていたのではないか。
廊下の角を曲がる寸前、透は足を止めた。気のせいかもしれない。しかし壁のガラスに、一瞬だけ、仮面をつけていない人間の顔が映ったような気がした。
振り返っても、そこには誰もいなかった。