翌日の放課後、私は佐藤君と待ち合わせて市立図書館へ向かった。春の午後の陽射しが頬に心地よく、桜並木の道を歩きながら、昨日の出来事を反芻していた。千鶴さんと春香さんが実在の人物だったという事実は、まだ私の中で完全に消化しきれずにいる。
「田中さん、本当に大丈夫? 顔色がまだ少し青いよ」
佐藤君が心配そうに声をかけてくる。彼の優しさが胸に沁みて、私は小さく微笑んだ。
「ありがとう、佐藤君。でも、もう大丈夫。むしろ、真実を知りたい気持ちの方が強いの」
市立図書館は、石造りの重厚な建物だった。明治時代に建てられたという古い建築で、入口の上には「大正八年竣工」と刻まれた石板が掲げられている。まさに千鶴さんや春香さんが生きていた時代の空気を纏った場所だ。
図書館の中は静寂に包まれ、古い本の匂いが漂っていた。司書の方に郷土史の資料について尋ねると、奥の特別資料室へ案内された。
「桜花女学校の資料をお探しでしたら、こちらの棚になります」
司書の女性が指し示した棚には、年代順に整理された膨大な資料が並んでいた。明治末期から大正初期にかけての新聞の縮刷版、学校史、当時の写真集など、まさに宝の山だった。
「すごい量だね。どこから手をつけよう」
佐藤君が感嘆の声を上げる。私たちは手分けして、明治四十四年から四十六年頃の資料を集めた。
最初に手に取ったのは、『桜花女学校創立十周年記念誌』だった。ページをめくると、見覚えのある校舎の写真が現れる。現在の校舎よりもずっと小さく、木造の瀟洒な建物だった。そして——
「あった!」
私は思わず声を上げてしまい、慌てて口を押さえた。そこには、第一回卒業式の集合写真が掲載されていたのだ。
写真は白黒で少しぼやけていたが、前列中央に座る一人の少女の面影に、私の心臓が激しく鼓動した。清楚な着物姿で、意志の強そうな瞳をした少女。間違いない、千鶴さんだ。
「田中さん、こっちも見て」
佐藤君が別の資料を広げている。そこには寄付者名簿があり、「花岡商店 花岡重兵衛」の名前と共に、「令嬢春香様より」という但し書きがあった。
「春香さんも、確実にいたのね」
私の声は震えていた。夢でも幻でもない。あの二人は確かに存在し、この場所で学び、夢を抱いていたのだ。
さらに調査を進めると、千鶴さんについてより詳しい記録が見つかった。「田村千鶴 首席卒業 東京女子師範学校進学予定」と記されている。
「師範学校って、教師になるための学校よね」私は佐藤君に確認した。
「そうだね。明治時代に女性が師範学校に進学するのは、相当珍しいことだったはず」
佐藤君の言葉通り、千鶴さんの志の高さが改めて伺えた。彼女は本当に教育者になることを夢見ていたのだ。
しかし、調査を進めるうちに奇妙なことに気づいた。明治四十五年の春まで、千鶴さんと春香さんに関する記録は継続して見つかるのだが、その年の夏以降、二人の名前が資料から完全に消えているのだ。
「おかしいな」佐藤君も首をひねる。「師範学校に進学したなら、何かしらの記録が残っているはずなのに」
春香さんについても同様だった。花岡商店は地域の有力商家で、新聞にもたびたび名前が出るのに、春香さん個人の消息は明治四十五年の夏を境に途絶えている。
「まるで、二人とも忽然と姿を消したみたい」
私の言葉に、図書館の静寂がより一層重く感じられた。いったい何があったのだろう。千鶴さんと春香さんに、一体何が起きたのだろうか。
夕方近くまで調査を続けたが、その謎は解けなかった。むしろ、新たな疑問が次々と浮かび上がってくる。
「今日はここまでにしよう」佐藤君が資料を片付けながら提案した。「でも、必ず答えは見つかるよ。僕も手伝うから」
図書館を出ると、外はもう薄暗くなっていた。春の夕暮れ時特有の、どこか寂しげな空気が街を包んでいる。
「佐藤君」私は歩きながら口を開いた。「もし千鶴さんと春香さんに何か悲しいことが起きていたとしても、私は真実を知りたい。二人が私に会いに来てくれた理由も、きっとそこにあると思うの」
「田中さん…」
「一人だったら、きっと怖くて逃げ出していたと思う。でも、佐藤君がいてくれるから頑張れる。ありがとう」
佐藤君は少し赤くなって、照れたように頭を掻いた。
「僕の方こそ、こんな貴重な体験に立ち会えて光栄だよ。歴史の謎を解く醍醐味を味わわせてもらってる」
学校の前で別れる時、私は再び桜の木を見上げた。夕闇の中で、古い桜の枝が複雑な影を作っている。千鶴さんと春香さんは、今夜も私の前に現れてくれるだろうか。
そして、私は二人に聞かなければならない。明治四十五年の夏、いったい何が起きたのかを。
家に帰る道すがら、私の心は複雑な感情で満たされていた。二人の存在が確認できた喜びと、記録が途絶えていることへの不安。そして、必ず真実に辿り着いてみせるという、静かな決意。
夜風が頬を撫でて行く。桜の季節はもうすぐ終わりを迎えるが、私と二人の少女の物語は、まだ始まったばかりなのかもしれない。