健一の小さな姿が光に包まれて消えた後、地下室は深い静寂に満たされた。樹里は膝をついたまま、その場所を見つめていた。十歳の少年の純粋な魂が、ようやく安らぎを得たのだ。
「樹里さん」
佐々木教授の声が、静寂を優しく破った。振り返ると、老教授の目には深い安堵の光が宿っていた。
「よくやりました。健一君を救うことができたのは、あなたの心の純粋さゆえです」
樹里は立ち上がり、ほっと息をついた。しかし、教授の表情には影もあった。
「でも、まだ最も困難な存在が残っているんですよね」
「はい。しかし今夜は充分すぎるほどお疲れでしょう。まずは─」
教授の言葉が途中で止まった。地下室の空気が微かに震え始めたのだ。しかし、これまでの不気味な震えとは異なり、どこか温かく、優しい波動だった。
「これは...」
樹里が呟いた時、空間に美しい光が現れ始めた。最初は小さな光の粒だったそれらが、次第に人の形を成していく。
まず現れたのは、優雅な着物姿の女性だった。雅楽院静香の美しい姿が、淡い光に包まれて立っていた。
「樹里さん」
静香の声は、生前よりもさらに澄んでいた。
「あなたのおかげで、私は長い間抱えていた重荷を下ろすことができました。心から感謝しています」
静香の隣に、別の光が現れた。小さな健一の姿だった。少年は嬉しそうに微笑んでいる。
「お姉ちゃん、ありがとう。僕、もう怖くないよ」
健一の無邪気な声に、樹里の胸は熱くなった。
そして、最も印象的な光が現れた。エドワード・グレイの堂々とした姿だった。いつもの傲慢さは影を潜め、代わりに深い感謝の念が表情に刻まれていた。
「樹里」
エドワードの声は、これまでになく穏やかだった。
「君は私の最も大切なものを理解し、それを完成させてくれた。百五十年という長い時を経て、ようやく私の音楽は真の完成を見たのだ」
樹里は三人の霊たちを見回した。彼らの表情は皆、深い平安に満ちていた。
「私は...ただ、皆さんの音楽への愛を感じただけです」
「いえ」静香が微笑みながら首を振った。「あなたは私たちの想いを理解し、受け入れ、そして昇華してくださった。それは並大抵のことではありません」
健一が樹里の前に歩み寄った。
「お姉ちゃんの音楽、とても温かいんだ。僕の心にも届いたよ」
エドワードも一歩前に出た。
「君の技術はまだ発展途上かもしれない。しかし、君の心には真の音楽家の魂が宿っている。それを決して失ってはならない」
三人の霊は、樹里を囲むようにして立った。空間全体が柔らかな光に満たされていく。
「私たちは、もう行かなければなりません」静香が言った。「長い間、この世に留まりすぎました」
「でも、お姉ちゃんは忘れないでね。僕たちのことも、音楽のことも」健一が言った。
エドワードは樹里を真っ直ぐ見つめた。
「君の中には、私たちの想いが生き続ける。それが音楽の永遠性というものだ。君が演奏する限り、私たちの魂も歌い続けるのだ」
樹里の目に涙がにじんだ。彼らとの出会いが、自分の音楽人生をどれほど豊かにしてくれたか、言葉では表せなかった。
「私、頑張ります。皆さんから学んだことを、決して忘れません」
「我々の方こそ、君から多くを学びました」静香が言った。「愛の力を、受け入れる心の美しさを」
光がより一層強くなった。三人の姿が徐々に薄くなっていく。
「樹里」エドワードの声が遠くなりながらも、はっきりと響いた。「私のノクターンを、時々演奏してくれ。完成した形で」
「健一君の歌も」静香が続けた。「あの美しい歌声を、あなたの音楽に込めてください」
「そして僕の想いも、お姉ちゃんの演奏に込めてね」健一が最後に言った。
三人の霊は、最後にもう一度深く頭を下げた。その瞬間、地下室全体が眩いばかりの光に包まれた。光が収まった時、もう誰もそこにはいなかった。
樹里は立ち尽くしていた。深い感動と、同時に寂しさが心を満たしていた。
「彼らは安らぎを得ました」教授が静かに言った。「七十年以上、この建物に縛られ続けていた魂たちが、ついに自由を得たのです」
「寂しいですね」樹里が小さくつぶやいた。
「でも、彼らは本当の意味で生き続けます」教授が優しく答えた。「あなたの音楽の中で、あなたの心の中で」
樹里は深くうなずいた。確かに、三人の霊たちから受け取ったものは、決して失われることはない。
地下室の空気は、これまでになく清浄だった。長い間澱んでいた想念が浄化され、穏やかな静寂が支配していた。
「教授」樹里が振り返った。「最深部にいるという、最も恐ろしい存在について、詳しく教えてください」
教授の表情が急に険しくなった。
「それは...」教授は言葉を選ぶように慎重に続けた。「音楽への愛が歪んでしまった存在です。他の霊たちとは根本的に異なります」
樹里の背筋に寒気が走った。
「どういう意味ですか?」
「これまであなたが救った霊たちは、皆純粋な音楽への愛を持っていました。しかし、その存在は...音楽への愛が憎悪に変わってしまったのです」
教授の声は重く、深刻だった。
「その霊は、音楽を愛するがゆえに、音楽を汚すものを憎むようになりました。そして今では、音楽に関わる全ての人間を敵とみなしています」
樹里は息を呑んだ。
「つまり、私も敵だと...」
「おそらく」教授がうなずいた。「しかし、あなたなら、その歪んだ愛を正しい形に戻せるかもしれません。ただし、それは今までとは比べものにならないほど危険です」
地下室の奥から、かすかに不気味な音が聞こえてきた。まるで、彼らの会話を聞いていたかのように。