佐々木教授の光が消え去った練習室に、静寂が戻った。あの巨大な怨霊は跡形もなく消失し、空気は澄み切っている。樹里は息を荒くしながらピアノの前に座り続けていた。手は震え、心臓は激しく鼓動している。
「教授......」
樹里の呟きが室内に響いた。隣に立つ修平も、言葉を失ったまま佇んでいる。
その時、樹里の視界に薄っすらとエドワードの姿が現れた。19世紀の天才ピアニストは、いつもの傲慢な表情ではなく、どこか穏やかな面持ちで樹里を見つめている。
「樹里よ」エドワードの声は、これまでになく優しかった。「教授は見事な最期だった。彼の魂は、きっと安らかな場所へ向かっただろう」
「エドワード......」
樹里は顔を上げた。エドワードの姿は以前より薄く、透明感を増していた。雅楽院静香の姿も、ぼんやりと見える程度になっている。
「私たちも、そろそろ時が来たようだ」静香が微笑みながら言った。「この長い時間、この場所に留まり続けていたが、ようやく解放の時を迎えられそうだ」
樹里の胸に、切ない思いが込み上げてきた。彼らとの別れの時が近づいているのだろうか。
「でも、まだ......」樹里は言いかけて、ふとエドワードの表情に気がついた。彼の瞳には、まだ何かを求める光が宿っている。「エドワード、あなたの楽曲は?」
エドワードは苦笑いを浮かべた。「そうだな。確かに、それだけが心残りだ」
樹里は立ち上がり、楽譜台に向かった。そこには、あの日エドワードから受け取った古い楽譜が置かれている。未完成の『夜想曲第21番』。第一楽章から第三楽章までは完成されているが、最終楽章だけが途中で途切れている。
「この楽曲を完成させることが、あなたの最後の願いなのね」
樹里は楽譜を手に取った。紙は古く黄ばんでいるが、エドワードの筆跡は今も鮮明に残っている。音符の一つ一つに、彼の魂が込められているのが分かる。
「樹里、しかしそれは......」エドワードが躊躇うように言った。「最終楽章は私が生前に完成させることができなかった。死後もずっと考え続けているが、なかなか......」
「でも、私にはあなたの音楽が聞こえる」樹里は楽譜を見つめながら言った。「第三楽章の最後から、続きのメロディーが微かに聞こえるの」
エドワードの目が驚きで見開かれた。
樹里は楽譜をピアノの上に置き、椅子に座った。深呼吸をして、心を落ち着かせる。そして、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。
第一楽章が始まった。憂いを帯びた美しいメロディーが室内に響く。エドワードの魂が込められた旋律は、樹里の指先を通して現代に蘇る。
修平は息を呑んで聞き入っている。これほど深い感情の込もった演奏を、樹里から聞いたことがない。
第二楽章へと移る。より複雑で情熱的な楽章だ。樹里の指は迷うことなく鍵盤を駆け抜けていく。エドワードの残した音符が、完璧に再現されていく。
エドワードは固唾を呑んで見守っている。自分の楽曲が、これほど美しく演奏されるのを聞くのは、生前以来のことだった。
第三楽章。最も技巧的で華やかな部分だ。樹里の演奏は一段と輝きを増す。しかし、楽章の終盤に差し掛かると、樹里は楽譜から目を離した。
「ここから先は......」樹里が呟く。
「樹里、無理をすることはない」エドワードが言った。「未完成のままでも十分だ」
しかし樹里は首を振った。「いえ、聞こえるの。あなたの心の奥で鳴り続けている旋律が」
樹里は目を閉じた。心の中で、エドワードの魂の声に耳を澄ませる。すると確かに、美しいメロディーが響いてくる。それは、エドワードが生前に思い描いていながら、形にすることのできなかった音楽だった。
樹里の指が再び動き始めた。今度は楽譜にない、全く新しい旋律だ。しかしその音楽は、間違いなくエドワードの魂から生まれたものだった。
エドワードの目に、驚きと感動の涙が浮かんだ。「それだ......それこそが私の求めていた音楽だ」
最終楽章が展開されていく。樹里とエドワードの魂が一体となって紡ぎ出される旋律は、言葉では表現できないほど美しかった。これまでの三つの楽章すべての要素が織り込まれ、さらに新たな深みが加えられていく。
雅楽院静香も、深い感動に浸っている。「素晴らしい......こんなに美しい音楽があったなんて」
樹里の演奏が最高潮に達した時、室内に不思議な現象が起こった。エドワードの姿が、一瞬だけ生前のように鮮明に現れたのだ。若き日の彼の面影が、樹里の奏でる音楽と共に蘇る。
そして、長大な楽曲がついに完結の時を迎えた。樹里の指が最後の音符を奏でると、余韻が静かに室内に響き渡った。
しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。あまりにも完璧で、あまりにも美しい音楽だった。
「ありがとう、樹里」エドワードがようやく口を開いた。その声は、深い満足感に満ちていた。「私の音楽を完成させてくれて、本当にありがとう」
樹里は振り返った。エドワードの姿は、さらに薄くなっている。しかし彼の表情には、これまで見たことのない安らぎがあった。
「これで、私も心置きなく向こうの世界へ行くことができる」エドワードは微笑んだ。「樹里よ、君は真の音楽家だ。これからも、音楽への愛を忘れずに歩み続けてほしい」
「エドワード......」
樹里の目に涙が浮かんだ。彼との別れが、いよいよ現実のものとなる。
その時、練習室のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、見知らぬ老人だった。しかし、どこか見覚えのある面影がある。
「佐々木教授......?」修平が驚いて声を上げた。
老人は優しく微笑んだ。「そうだ。私は少し違う形で戻ってきた。エドワードや静香と同じように、しばらくこの世界に留まることになったようだ」