健太郎の魂が光に包まれて消えていくのを見送った後、練習室は不自然なほどの静寂に包まれた。しかし樹里は知っていた。これが嵐の前の静けさであることを。空気が重く澱み、まるで見えない巨大な存在が練習室全体を覆い尽くそうとしているかのようだった。

「樹里ちゃん」

 震え声が背後から聞こえて振り返ると、佐々木教授が練習室の扉に手をついて立っていた。いつもの穏やかな表情とは打って変わって、その顔には深い憔悴の色が浮かんでいる。白髪は乱れ、眼鏡の奥の瞳には痛切な光が宿っていた。

「教授、どうしてここに」

「もう時間がない」教授は息を切らしながら部屋に入ってきた。「最後の霊が目覚めてしまった。私にはわかるんです。この建物に染み付いた、あまりにも重い絶望が」

 樹里の背筋に冷たいものが走った。エドワードと雅楽院静香も姿を現し、二人の表情は今まで見たことがないほど緊張に満ちていた。

「佐々木教授」エドワードが珍しく敬意を込めた声で呟いた。「あなたがここに来るということは」

「ええ、覚悟を決めました」教授は震える手でピアノの蓋に触れた。「私には責任がある。この建物で起きた全ての悲劇に対して、私は見て見ぬ振りをしてきた。学生たちを守ることができなかった」

 雅楽院静香が教授を見つめて言った。

「あなたに罪はありません。私たちは自分の意志でここに留まったのです」

「いいえ」教授は首を振った。「私は知っていたんです。この練習室で何人もの学生が命を落としていることを。それでも真実を隠し続けた。保身のために」

 突然、練習室の温度が急激に下がった。樹里の息が白くなり、ピアノの鍵盤に霜が降り始める。そして、今まで感じたことのない強大な殺気が部屋全体を支配した。

「来る」エドワードが警告するように叫んだ。

 練習室の奥の壁から、黒い影がにじみ出してきた。それは人の形をしているようでいて、同時に人ではない何かでもあった。怨念が形を成したような存在。樹里は直感的に理解した。これこそが、この練習室に巣食う全ての絶望と憎悪の集合体なのだと。

「この建物で死んだ全ての魂の怨念が一つになってしまった」教授が震え声で説明した。「個々の霊なら浄化の余地があるが、これは違う。純粋な破壊衝動の塊です」

 黒い影は徐々に形を明確にしていく。そこには健太郎の絶望も、他の死んだ学生たちの無念も、全てが混沌として渦巻いていた。影から聞こえてくるのは、無数の断末魔と、音楽への憎悪に歪んだ悲鳴だった。

「樹里ちゃん、逃げなさい」教授が樹里の肩を押した。「これは私の責任です」

「でも教授一人では」

「いいえ、私には方法がある」教授の目に決意の光が宿った。「この建物の歴史を最も深く知る者として、そして過去の罪を償う者として、私にしかできないことがあるんです」

 佐々木教授は老いた体を引きずりながら、黒い影の前に立ちはだかった。その瞬間、教授の体から温かい光が放射され始める。

「私は佐々木重雄。この建物で四十年間、音楽を教えてきた者です」教授の声に不思議な力が宿り、練習室全体に響き渡った。「私は多くの過ちを犯しました。真実を隠し、学生たちを守れなかった。しかし今こそ、その償いをする時です」

 黒い影が教授に向かって襲いかかった。しかし教授は恐れることなく、その場に立ち続けた。

「音楽は本来、魂を救うためのもの。憎しみを生むためのものではない」教授の声が涙で震えた。「あなたたちが愛した音楽を思い出してください。なぜピアノを弾き始めたのか、なぜ作曲を志したのか、なぜ音楽の道を選んだのかを」

 教授の体を黒い影が貫いた。しかし不思議なことに、教授は倒れなかった。代わりに、教授の体がより強い光を放ち始める。

「教授!」樹里が叫んだ。

「大丈夫です」教授が振り返って微笑んだ。その顔には安らぎの色が浮かんでいた。「これが私の最後の授業です。音楽の真の力を示すための」

 教授は左手をピアノの鍵盤に置いた。震える指が、一つの音を奏でる。それは単純な音だった。しかしその音には、四十年間音楽と共に歩んできた教授の全ての想いが込められていた。

 黒い影が少しひるんだ。教授は続けて、もう一つの音を奏でる。今度は右手で。二つの音が重なり合って、美しいハーモニーを作り出した。

「音楽は争うものではない」教授の声が練習室に響いた。「音楽は分かち合うもの。愛し合うもの。そして、魂を癒すもの。あなたたちもかつてはそれを知っていたはず」

 教授の演奏に合わせて、エドワードがピアノの高音部を弾き始めた。雅楽院静香も美しいメロディーを紡ぎ出す。そして樹里も、恐る恐るピアノに手を置いた。

 四つの魂が奏でるハーモニーが練習室を満たした。黒い影は苦しそうに身をよじり、時折人の形を取り戻しそうになる。その中に、樹里は無数の顔を見た。音楽を愛していたはずの、若い学生たちの顔を。

「そうです」教授が優しく語りかけた。「あなたたちは音楽を愛していた。音楽に人生を捧げようとしていた。それは美しいことなんです。誇りに思うべきことなんです」

 教授の体が次第に透明になっていく。命の灯火が消えかけているのがわかった。しかし教授は最後の力を振り絞って演奏を続けた。

「樹里ちゃん」教授が振り返った。「あなたには特別な力がある。音楽で魂を救う力が。この子たちを、どうか救ってください」

「教授、まさか」

「私の人生は音楽と共にありました」教授の声が次第に小さくなっていく。「そして音楽と共に終わることができるなら、それは幸せなことです。さあ、最後の一曲を、皆で一緒に」

 佐々木教授の姿が光の粒子となって散り始めた。しかしその光は消えることなく、練習室全体を温かく包んでいく。黒い影の中から、一人、また一人と、学生たちの本来の姿が現れ始めた。

 樹里は涙を流しながら、心を込めてピアノを弾き続けた。教授の最後の願いを叶えるために。そして、音楽を愛した全ての魂を、本当の安らぎへと導くために。

夜想曲と紡がれた亡霊

40

教授の支援

月村 奏子

2026-04-29

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第40話 教授の支援 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版