翌朝、樹里は重い足取りで大学の校門をくぐった。昨夜からの疲労は抜けず、鏡に映る自分の顔は青白く、頬はこけて見えた。まるで長い病気を患っているかのようだった。
「おはよう、樹里」
いつものように修平が声をかけてきたが、樹里はただ小さくうなずくだけで応えた。言葉を発するのも億劫で、喉の奥が乾いているような感覚があった。
「大丈夫?顔色が…」
「平気よ」
樹里は足早に教室へ向かった。修平の心配そうな視線が背中に突き刺さるのを感じながら、彼から距離を置こうとした。これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。昨夜佐々木教授が告げた「最後の演奏会」という言葉が、胸の奥で重くのしかかっていた。
音楽理論の講義中、樹里は集中することができなかった。教授の声が遠くから聞こえてくるようで、ノートを取る手も震えがちだった。隣に座る同級生の美咲が、心配そうにちらちらと視線を送ってくるのが分かった。
「桜井さん、大丈夫ですか」
休憩時間になると、美咲が小声で話しかけてきた。美咲は声楽科の学生で、いつも明るく樹里に接してくれる友人の一人だった。
「ええ、少し疲れているだけです」
樹里は作り笑顔を浮かべたが、美咲の表情は晴れなかった。
「でも、最近ずっと元気がないように見えて…。何か悩み事があるなら、話を聞くことはできますよ」
その優しさが、樹里の胸を締め付けた。話したいという気持ちと、話せるはずがないという現実の間で、樹里は苦しんだ。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
美咲は納得していない様子だったが、それ以上は追求しなかった。ただ、「いつでも相談してくださいね」と言葉を残して席に戻った。
昼休み、樹里は人気のない中庭のベンチに座って空を見上げていた。雲が流れる様子を眺めていると、少しだけ心が落ち着いた。しかし、その静寂も長くは続かなかった。
「樹里ちゃん、こんなところにいたのね」
振り返ると、同じピアノ科の先輩である橋本加奈が立っていた。加奈は樹里より二つ年上で、いつも後輩の面倒をよく見てくれる頼りになる存在だった。
「加奈先輩…」
「修平くんから聞いたの。最近、とても疲れているって」
加奈は樹里の隣に腰を下ろし、温かい缶コーヒーを差し出した。
「無理しちゃダメよ。音楽って、体が資本なんだから」
樹里は缶コーヒーを受け取り、その温かさに少しほっとした。
「私たちね、みんな樹里ちゃんのことを心配してるの。美咲ちゃんも、田村くんも、それから一年生の子たちも」
加奈の言葉に、樹里は驚いた。そんなにも多くの人が自分を気にかけてくれていたなんて。
「でも、私…」
「何も話さなくてもいいの。ただ、一人で抱え込まないで」
加奈の声は優しく、まるで姉のようだった。樹里の目に涙が滲んだ。
「みんなで考えたんだけど、今度の土曜日、みんなでカラオケに行かない?気分転換になるかもしれないし」
樹里は首を横に振った。
「ごめんなさい、今はちょっと…」
「そう…」
加奈は残念そうな表情を見せたが、無理強いはしなかった。
「でも、樹里ちゃんが元気になったら、いつでも誘ってちょうだい。私たち、待ってるから」
午後のピアノレッスンでも、樹里の調子は上がらなかった。指が思うように動かず、演奏に集中できない。担当の准教授からも「体調管理に気をつけるように」と注意を受けた。
レッスンが終わると、樹里は練習室に向かった。夕方の練習室は、まだ多くの学生が利用している時間帯だった。廊下からは様々な楽器の音が聞こえてきて、それらが混ざり合って独特の響きを作り出していた。
樹里が練習室のドアを開けると、そこには修平がいた。
「待ってたんだ」
「修平…どうして」
「君の様子がおかしいから」
修平は真剣な表情で樹里を見つめた。
「みんな心配してるんだ。美咲も、橋本先輩も、それに僕も」
樹里は黙ってピアノの前に座った。鍵盤に手を置くと、その冷たさが指先に伝わってきた。
「一人で背負い込むことないだろう」
修平の言葉が、樹里の心の壁に響いた。
「でも、あなたには関係ないことよ」
「関係ないって…僕たち幼馴染じゃないか」
修平の声に苛立ちが混じった。
「樹里、君が苦しんでいるのを見ているのは辛いんだ」
樹里は鍵盤を見つめたまま答えた。
「もうすぐ、全部終わるから」
「何が終わるって?」
その時、練習室のドアがノックされた。修平がドアを開けると、美咲と加奈、それに何人かの同級生が立っていた。
「お邪魔します」
美咲が控えめに入ってきて、続いて他の学生たちも部屋に入った。狭い練習室が、一気に人でいっぱいになった。
「樹里ちゃん」
加奈が優しく声をかけた。
「私たちね、ずっと相談してたの。樹里ちゃんのために何かできることはないかって」
「それで、みんなで話し合った結果」
一年生の田村が緊張した様子で口を開いた。
「僕たち、樹里先輩の演奏をもう一度聞きたいんです。あの、入学式の時の演奏みたいな、心に響く演奏を」
樹里は顔を上げて、集まった仲間たちを見回した。そこには、心から自分を心配してくれる温かい眼差しがあった。
「だから、小さな演奏会を開きませんか」
美咲が提案した。
「樹里ちゃんの好きな曲を、私たちの前で弾いてもらえませんか」
樹里の胸が熱くなった。彼らの優しさが、冷え切った心に温かさを運んでくれた。しかし同時に、今夜が最後の夜になるかもしれないという現実が重くのしかかった。
「みんな…ありがとう」
樹里の声は震えていた。
「でも、今は…」
「無理しなくていいのよ」
加奈が樹里の肩に手を置いた。
「ただ、樹里ちゃんが一人じゃないってことを、忘れないでほしいの」
その瞬間、樹里の中で何かが崩れた。今まで必死に堪えていた感情が溢れ出しそうになった。しかし、それを表に出すことはできなかった。今夜、佐々木教授と約束した「最後の演奏会」が待っている。エドワードと静香の魂を解放し、自分も現世に戻るための最後の機会が。
樹里は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう。みんなの気持ち、とても嬉しいです」
夕日が練習室の窓から差し込み、樹里の頬を赤く染めていた。もうすぐ夜がやってくる。そして、全てが決まる時が近づいていた。