樹里は自分の身体が少しずつ薄くなっていることを感じながらも、練習室に足を向けた。夜の校舎は静寂に包まれ、月光だけが窓から差し込んで、古い木造の廊下を幻想的に照らしていた。
いつものように練習室のドアを開けると、静香がピアノの前に座っていた。しかし今夜の彼女は、いつもの凛とした佇まいではなく、どこか沈んだ表情を浮かべている。
「静香さん」
樹里の声に、静香がゆっくりと振り返った。その美しい横顔に、深い悲しみが宿っているのを樹里は見逃さなかった。
「樹里さん。今夜もいらしたのですね」静香の声は、いつもより震えているようだった。「エドワード様のお話を聞いていました。私たちは皆、音楽に囚われた魂なのですね」
樹里は静香の隣に腰を下ろした。ピアノの鍵盤には、月光が銀色の帯を描いている。
「静香さんも、何かお話しくださいませんか。あなたの音楽への想いを、知りたいのです」
静香は長い間黙っていた。やがて、細い指で鍵盤に触れると、どこか懐かしいメロディーが流れ始めた。それは日本の古い童謡を基調としながらも、西洋音楽の和声が巧妙に織り込まれた、美しくも哀愁に満ちた調べだった。
「これは私の作品です。『故郷への夢想』という題名をつけました」静香は演奏を続けながら語った。「昭和十八年の作品です。あの頃は、もう戦争の影が音楽界にも深く落ちていました」
曲が終わると、静香は手を膝の上に置いた。
「私は雅楽院家の次女として生まれました。家は古い公家の血筋で、父は宮内庁に勤めておりましたが、時代の流れで没落していました。兄は戦地に送られ、私だけが家に残されました」
樹里は静かに耳を傾けた。静香の声は、遠い昔の記憶を辿るように、ゆっくりと紡がれていく。
「幼い頃から音楽が好きでした。でも女性が作曲家になるなど、当時は考えられないことでした。父は『女子は良妻賢母であれば十分』と言い、音楽を学ぶことすら良しとしませんでした。それでも私は諦められず、内緒で楽譜を買い、夜中にこっそりと作曲の勉強をしていました」
静香の指が再び鍵盤を撫でた。今度は激しく、情熱的な曲調だった。
「二十歳の時、偶然にもこの音楽学校の教授に私の作品を見ていただく機会がありました。教授は驚かれて、『君には才能がある。ぜひ本格的に学びなさい』とおっしゃってくださいました。父は猛反対でしたが、私は家を出てここで学ぶことにしたのです」
演奏が一段落すると、静香は深いため息をついた。
「でも戦争が激しくなると、音楽も国家のために奉仕すべきだと言われるようになりました。軍歌や勇壮な行進曲を作れと命じられました。私の心の奥底にある、繊細で美しい音楽は『軟弱』だと批判されました」
樹里は拳を握りしめた。音楽に上下も軟弱も勇壮もない。音楽は魂の言葉なのに、なぜそれを歪めようとする人がいるのだろう。
「それでも私は自分の音楽を捨てられませんでした。表向きは軍歌を作りながら、密かに本当に作りたい曲を書き続けました。この『故郷への夢想』もその一つです。戦地にいる兄への想いと、失われゆく美しい日本への愛を込めて作りました」
静香の目に涙が光った。
「昭和十九年の春のことでした。私の隠し持っていた楽譜が発見されたのです。特高警察に『非国民的思想』だと糾弾され、音楽学校からも追放されました。家族も『国賊の娘』として近所から白い目で見られました」
樹里の胸が痛んだ。音楽を愛し、ただ美しいものを創りたかっただけなのに。
「その後、私は小さな教会でオルガンを弾きながら、ひっそりと暮らしていました。でも昭和二十年の三月十日、東京大空襲で教会もろとも焼け死んでしまいました。最期まで、オルガンを弾き続けていました。バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』を」
静香の声が震えた。樹里は思わず彼女の手を握った。驚くほど冷たかった。
「私の楽譜は全て灰になりました。誰にも知られることなく、誰にも演奏されることなく。私の音楽は私と共に死んだのです」
「そんなことはありません」樹里は強い口調で言った。「静香さんの音楽は今、ここに生きています。私が聞いています。エドワードさんも聞いています。美しい音楽は決して死にません」
静香は樹里を見つめた。その瞳に、かすかな光が宿ったような気がした。
「樹里さん、あなたは優しい方ですね。でも私たちのような亡霊に関わりすぎてはいけません。あなたまで私たちと同じ運命を辿ってしまいます」
「同じ運命って?」
静香は立ち上がった。その姿が、月光の中でゆらゆらと揺れている。
「音楽への執着が、私たちを現世に縛り付けているのです。成仏できずに、永遠にこの場所で同じ想いを繰り返し続けているのです。あなたも気づいているでしょう?自分の身体に起きていることを」
樹里は自分の手を見下ろした。確かに、以前よりも透けて見える。まるで自分も幽霊になりつつあるかのように。
「でも私は後悔していません」樹里は立ち上がって静香と向き合った。「皆さんの音楽を聞けて、心を通わせることができて、本当に幸せです。これが音楽の本当の力なんだと、初めて知ることができました」
その時、練習室の扉が静かに開いた。エドワードが姿を現し、続いて佐々木教授が現れた。教授の表情は今まで見たことがないほど深刻だった。
「樹里君、もう限界です」教授は低い声で言った。「このままでは君も彼らと同じになってしまう。明日の夜、この問題に決着をつけなければなりません」
エドワードと静香が樹里を見つめている。その瞳には深い愛情と、そして諦めにも似た悲しみが宿っていた。
樹里は震える手で自分の胸を押さえた。鼓動が弱くなっているのを感じる。でも不思議と恐怖はなかった。ただ、彼らと共に音楽の中にいられることが、何より幸せだった。
「明日の夜、何をするのですか」樹里は教授に尋ねた。
「最後の演奏会です」教授は重々しく答えた。「彼らの魂を解放するための、そして君を現世に引き戻すための、最後の演奏会を」