深夜の練習室は、いつものように薄暗い光に包まれていた。樹里はピアノの前に座り、三人の霊たちの姿を見つめていた。最近になって、彼らの輪郭がより鮮明になり、表情の細かな変化まで読み取れるようになっていた。それと引き換えに、自分の身体が軽やかになりすぎているような不安を感じていたが、今はそれよりも彼らの物語に心を奪われていた。

「エドワード」と樹里は静かに呼びかけた。「あなたの過去を聞かせてください。どうして……どうしてこの場所に留まることになったのか」

 エドワードは窓際に立ち、月光を浴びながら振り返った。その蒼い瞳には、長い年月を経てもなお癒えることのない痛みが宿っていた。

「君は本当に知りたいのかね? 美しくない話だよ」

「はい。私たちが一緒に演奏を続けるなら、あなたのことを理解したいんです」

 エドワードは微かに苦笑いを浮かべ、ピアノの前に歩み寄った。その優雅な所作の中に、かつての栄光と絶望の両方が込められているように見えた。

「私が生きていた十九世紀後半、音楽界は華やかな世界だった。特にピアノは貴族社会の花形で、優れたピアニストは英雄のように扱われた」エドワードは鍵盤に指を置きながら語り始めた。「私は幼い頃から天才と呼ばれ、七歳でデビューを果たした。人々は私の演奏に酔いしれ、批評家たちは『神に愛された指』と評した」

 雅楽院静香が柔らかな表情で頷いた。「私も新聞でエドワード様の記事を読んだことがございます。『完璧な演奏』として語り継がれていました」

「ああ、完璧……」エドワードの声に影が差した。「それが私を殺した言葉だ」

 樹里は息を詰めた。完璧主義。それは音楽を学ぶ者なら誰もが抱く理想であり、同時に呪いでもあることを、彼女は肌で感じていた。

「最初の頃は、完璧を目指すことが楽しかった。一つの音符、一つのフレーズを何度も何度も練習し、理想の響きを追求する。それは純粋な音楽への愛だった」エドワードは鍵盤を軽く撫でた。「しかし、名声が高まるにつれ、人々の期待も大きくなった。『エドワード・グレイの演奏に間違いはない』『彼の音楽は神の領域だ』……そんな声が重荷になっていった」

 修平の霊が心配そうに樹里を見た。樹里もまた、最近の練習で完璧を追求しすぎて疲れ果てることが多かった。

「私は恐れるようになった。たった一つの音の狂い、微細なテンポの揺らぎさえも許せなくなった。演奏会の前は何日も眠れず、手が震えるまで練習を続けた」エドワードの声は次第に低くなった。「二十歳を過ぎた頃から、私は完璧な演奏以外は演奏ではないと考えるようになった。少しでも納得のいかない部分があれば、最初から弾き直した。一日十五時間、時には二十時間も練習した」

「エドワード様……」雅楽院静香が心痛そうにつぶやいた。

「周囲の人間はみな私を称賛し続けた。しかし、私の心は次第に音楽から遠ざかっていった。音楽を愛していたはずなのに、いつしか音楽が私を苦しめる鎖になっていた」

 樹里は胸が痛くなった。音楽への愛が、いつの間にか自分を縛る鎖に変わってしまう恐ろしさ。それは他人事ではなかった。

「決定的な出来事は、二十四歳の冬だった」エドワードは振り返り、三人を見つめた。「ロンドンの王立音楽院でのリサイタルの準備をしていた。演目はベートーヴェンのソナタ全曲という大曲だった。私は六ヶ月間、他の全てを犠牲にして練習に没頭した。食事も最低限、睡眠は三時間程度。指が血を流しても、鍵盤に向かい続けた」

 樹里は自分の指先を見た。最近の練習で、彼女の指にも小さな傷ができていた。

「リサイタル当日、私は舞台に立った。最初の楽章は完璧だった。しかし、第二楽章の途中で……」エドワードの声が震えた。「左手の薬指が、ほんの少しだけもつれた。観客には分からないほど微細な間違いだった。しかし、私には世界の終わりのように感じられた」

「それで……?」樹里が小さく尋ねた。

「私は演奏を止めた。舞台の上で立ち上がり、『申し訳ございません、最初からやり直させてください』と言った。観客はざわめいたが、私は最初から弾き始めた」エドワードの表情が苦痛に歪んだ。「しかし、今度は別の箇所で同じことが起きた。また止めて、また最初から。それを五回繰り返した」

 練習室に重い沈黙が流れた。雅楽院静香は目を伏せ、修平は拳を握りしめていた。

「観客は困惑し、最後には会場から人がいなくなった。私は空っぽのホールで、一人で弾き続けた。何時間も、何時間も……」エドワードの声は囁くように小さくなった。「翌朝、係員が私を発見した時、私は鍵盤に突っ伏して死んでいた。心身の過労による急性心不全だった」

 樹里は涙が溢れそうになった。音楽を愛するがゆえに、その愛に殺されてしまった悲劇的な運命。

「医師は言った。『彼の心臓は疲労で限界だった。まるで機械のように自分を酷使しすぎた』と」エドワードは苦笑いを浮かべた。「皮肉なことに、私の葬儀では『完璧主義の天才ピアニスト』として追悼された。人々は私の死を美化し、『芸術に殉じた聖人』と呼んだ」

「でも、それは違う……」樹里が震え声で言った。

「そうだ。私は芸術に殉じたのではない。完璧主義という病気に殺されたのだ」エドワードは樹里の目をまっすぐ見つめた。「君にも同じ兆候が見える。最近の君の演奏は確かに向上している。しかし、君の瞳に宿る光が、かつての私と同じものになりつつある」

 樹里は息を詰めた。確かに、最近の自分は一つの間違いも許せないような心境になっていた。

「音楽は完璧を目指すものだが、完璧に縛られるものではない」雅楽院静香が優しく言った。「私も戦前の厳しい音楽界で、完璧を求められ続けました。しかし、音楽の本質は技術的な完璧さではなく、心の表現にあると学んだのです」

 修平の霊が頷いた。「僕も生前、樹里の完璧主義を心配していました。樹里は優しすぎるから、全てを背負い込んでしまう」

「エドワード……」樹里は立ち上がり、彼に近づいた。「あなたは今でも完璧な演奏を求めているのですか?」

 エドワードは長い沈黙の後、首を振った。「いや。死後の長い年月で、私は理解した。私が本当に愛していたのは音楽そのものではなく、称賛される自分だったのかもしれない。真の音楽への愛とは何か、君たちと過ごすうちに思い出しつつある」

 樹里は彼の手に自分の手を重ねた。エドワードの手は冷たかったが、確かな温もりを感じた。

「私たちで一緒に、本当の音楽を見つけましょう」樹里は微笑んだ。「完璧ではないかもしれないけれど、心から愛せる音楽を」

 エドワードの瞳に、久しぶりに柔らかな光が宿った。しかし同時に、樹里は自分の身体がさらに軽くなったような感覚を覚えた。鏡に映る自分の姿は、さらに薄くなっているように見えた。

 果たして、この道の先に何が待っているのだろうか。

夜想曲と紡がれた亡霊

22

エドワードの過去

月村 奏子

2026-04-11

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第22話 エドワードの過去 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版