佐々木教授の研究室を出た樹里は、夕闇の廊下をゆっくりと歩いていた。頭の中で教授の言葉が何度も響く。音楽を愛するがゆえに理不尽な死を迎えた霊たちを救う使命。それは重すぎる責任のようにも感じられたが、同時に自分がここにいる理由が明確になったような気もしていた。
「樹里!」
修平の声が廊下の向こうから聞こえてきた。彼は小走りで駆け寄ってくると、心配そうに樹里の顔を覗き込む。
「大丈夫だった?教授から何か聞いたのか?」
「うん、色々と」
樹里は曖昧に答えた。修平には霊たちのことは話せても、自分に課せられた使命については、まだ整理がついていなかった。
「今夜は早く帰った方がいい。顔色が悪いよ」
「でも、練習しなくちゃ」
「樹里」
修平は樹里の肩に手を置いた。その温もりが現実世界にいることを思い出させてくれる。
「無理しちゃダメだ。君が倒れたら、誰も助けられなくなる」
樹里は小さく頷いた。修平の言葉に従って、その夜は早めに寮に戻ることにした。
翌日から、樹里の生活は一変した。授業が終わると迷わず第七練習室へ向かい、夜更けまで霊たちとの特訓に明け暮れた。エドワードの厳格な指導、静香さんの優しくも的確なアドバイス、そして健一の純真な音楽愛に触れることで、樹里の演奏技術は日を追うごとに向上していった。
「もっと左手を意識して。和声の流れを感じるのよ」
静香さんの声が練習室に響く。樹里の指先からは、以前とは比べものにならないほど豊かな音色が生まれていた。ショパンのバラード第一番を弾く樹里の演奏に、エドワードも満足げに頷いている。
「素晴らしい。君の感受性と技術が見事に融合している」
「本当ですか?」
樹里は振り返ると、三人の霊たちが微笑んでいた。特に健一は目を輝かせながら拍手をしている。
「樹里お姉ちゃん、すごく上手になったね!僕もまた一緒に弾きたいよ」
「ありがとう、健一くん」
樹里は温かい気持ちになった。この特訓は確実に自分を成長させてくれている。それは技術だけでなく、音楽に対する理解と愛情の深さにおいても同様だった。
しかし、数日が過ぎるにつれて、樹里は奇妙な感覚に襲われるようになった。現実の世界が薄ぼんやりとして見え、霊たちとの時間だけが鮮明に感じられるようになったのだ。
「樹里、また居眠りしてるぞ」
音楽史の授業中、修平に肘でつつかれて樹里は我に返った。教壇の教授の声が遠くから聞こえてくるような感覚がある。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「最近、大丈夫か?なんだか様子がおかしいような」
修平の心配そうな表情を見て、樹里は慌てて笑顔を作った。
「大丈夫よ。ちょっと練習に集中しすぎてるだけ」
しかし、その夜の特訓で、樹里の異変はさらに顕著になった。
「今日の演奏は素晴らしかったわ」
静香さんが樹里を褒めると、なぜかその声が以前よりもはっきりと聞こえた。それどころか、静香さんの姿も前より鮮明に見える。美しい着物の柄や、繊細な指の動きまでくっきりと見えるのだ。
「あれ?」
樹里は困惑した。最初に霊たちと出会った時は、ぼんやりとした輪郭でしか見えなかったはずなのに。
「どうしたの、樹里?」
エドワードが心配そうに尋ねる。彼の金髪も蒼い瞳も、まるで生きている人間のようにはっきりと見えた。
「いえ、何でもありません」
樹里は首を振った。しかし、心の奥で不安が芽生えていた。
その夜、寮に戻った樹里は鏡の前に立った。そこに映る自分の顔は、なぜか青白く見えた。頬はこけ、目の下には濃いクマができている。
「私、大丈夫かな」
つぶやいた声も、なんだか力がない。しかし、ピアノの前に座ると、指先からは驚くほど美しい音色が流れ出した。エドワードたちから学んだ技術が確実に身についている。
翌日の個人レッスンで、担当教授は樹里の演奏に驚愕した。
「桜井さん、この短期間でここまで上達するなんて。まるで別人のような演奏ですね」
教授の言葉に樹里は複雑な気持ちになった。確かに自分の演奏は飛躍的に向上している。しかし、それは果たして純粋に自分の力なのだろうか。
「先生、質問があります」
「なんでしょう?」
「音楽に全身全霊を捧げるということは、他の全てを犠牲にしてもいいということなのでしょうか?」
教授は少し考えてから答えた。
「音楽は確かに献身を要求する芸術です。しかし、現実世界とのバランスを失ってはいけません。音楽は人生を豊かにするものであって、人生そのものを奪うものではないのです」
その言葉が樹里の胸に深く刺さった。
その夜も第七練習室に向かった樹里だったが、廊下を歩いていると、ふとめまいを感じた。壁に手をついて体を支えると、自分の手が薄っすらと透けて見えるような気がした。
「そんなはずない」
樹里は慌てて手を見直したが、今度は普通に見えた。きっと照明のせいだろうと自分に言い聞かせる。
練習室のドアを開けると、三人の霊たちが待っていた。今夜も彼らの姿は驚くほど鮮明で、まるで生きている人間と変わらない。
「樹里、来てくれたのね」
静香さんの声は優しかったが、どこか心配そうでもあった。
「今夜も頑張りましょう」
樹里はピアノの前に座った。しかし、鍵盤に触れた瞬間、奇妙な感覚に襲われた。自分の指先と鍵盤の境界が曖昧になったような、不思議な一体感を覚えたのだ。
演奏が始まると、樹里の意識は音楽の世界に完全に没入した。ショパンのメロディが練習室を満たし、霊たちも感動に震えている。しかし、樹里自身は演奏している感覚がだんだん薄れていく。まるで自分が音楽そのものになったような、現実離れした感覚だった。
「樹里?」
エドワードの声が遠くから聞こえる。樹里は演奏を止めて振り返った。
「どうかしましたか?」
「君、少し休んだ方がいい。顔色が」
エドワードの表情は明らかに心配していた。静香さんと健一も同様だった。
「でも、もっと練習しなくちゃ。皆さんを救うために」
「樹里」
静香さんが立ち上がった。
「私たちを救うことも大切だけれど、あなた自身を失ってはいけないわ」
その瞬間、樹里は気づいた。自分が霊たちの世界に引き込まれていることに。現実世界との境界線が、日に日に曖昧になっている。
練習室の時計を見ると、午前三時を指していた。いつの間にか、こんな時間まで過ごしていたのだ。
「今夜はもう帰ります」
樹里は立ち上がったが、足元がふらついた。エドワードが慌てて支えようとしたが、その手は樹里の体をすり抜けた。霊である彼には、樹里を支えることはできない。
「大丈夫、大丈夫です」
樹里は壁に手をついて体勢を立て直した。しかし、心の中では不安が募っていた。このまま特訓を続けて、本当に大丈夫なのだろうか。
練習室を出る時、樹里は振り返った。三人の霊たちが心配そうに見送っている。特に健一の表情は、罪悪感に満ちていた。
「樹里お姉ちゃん、僕たちのせいで」
「違うよ、健一くん。これは私が選んだ道」
樹里は微笑んだが、その笑顔は以前ほど力強くなかった。
寮への帰り道、樹里は校舎の窓ガラスに映る自分の姿を見た。そこには、まるで霊のように薄っすらとした少女の影があった。