翌朝、樹里は練習室の扉を開けながら深いため息をついた。昨夜の出来事が夢ではなかったことを、手に残るピアノの鍵盤の冷たい感触が証明していた。

「おはよう、樹里」

 修平が既にピアノの前に座り、楽譜を広げていた。その横には、昨夜エドワードが残していった古い楽譜が置かれている。羊皮紙のような古い紙に書かれた音符は、まるで血痕のように濃い茶色に変色していた。

「修平くん、おはよう」

 樹里は修平の隣に腰を下ろし、恐る恐る楽譜に目を向けた。五線譜に踊る音符たちは、一見すると美しい旋律を奏でそうに見える。しかし、よく見ると異常なほど複雑な装飾が施され、人間の十本の指では到底演奏不可能に思える箇所が随所に見られた。

「これ、本当に人間が弾けるものなの?」

 樹里の声には不安が滲んでいた。修平は楽譜を指でなぞりながら答えた。

「エドワードは天才だったんだろうけど、この楽譜は......」

 修平の言葉が途切れる。楽譜の端に、小さな文字で何かが書かれていることに気づいたのだ。

『完璧な演奏こそが、我が魂の安らぎなり』

 その文字は、まるで血で書かれたように赤黒く滲んでいた。

「樹里、君は本当にこれを演奏するつもりなのか?」

 修平の声に心配が込められていた。しかし、樹里は静かにうなずいた。

「あの人たちの苦しみを見て見ぬふりはできない。それに......」

 樹里は立ち上がり、練習室の窓辺に向かった。朝の光が差し込む窓から見える中庭では、同級生たちが楽器を抱えて歩いている。彼らの表情には、音楽への純粋な愛が宿っていた。

「私も本当の音楽家になりたい。エドワードさんや静香さんのように、音楽に全てを捧げられる人に」

 その日から、樹里の過酷な練習が始まった。朝から晩まで練習室にこもり、エドワードの楽譜と格闘した。しかし、現実は想像以上に厳しかった。

 楽譜の最初の数小節を弾いただけで、樹里の指は悲鳴を上げた。通常のピアノ練習では体験したことのない負荷が、指の関節一つ一つに襲いかかる。

「ああ、だめ......」

 三日目の夕方、樹里は鍵盤に突っ伏した。指先は腫れ上がり、爪の根元から血が滲んでいた。修平が心配そうに背中をさすってくれたが、樹里の心は絶望に支配されていた。

「無理よ、こんなの。私の技術じゃ全然足りない」

 樹里の嗚咽が練習室に響いた。二年間必死に練習してきた自信が、たった数日で完全に打ち砕かれた。音楽大学の学生として、それなりの実力があると思っていた自分の甘さを痛感した。

 夜が更けると、いつものようにエドワードが現れた。しかし、今夜の彼の表情はいつもより厳しかった。

「何をしている、樹里。たったこの程度で諦めるつもりか」

 エドワードの冷たい声が練習室に響く。樹里は顔を上げることができなかった。

「私には無理です。あなたの楽譜は、私の能力を遥かに超えています」

「能力?」エドワードが鼻で笑った。「技術などただの道具に過ぎん。重要なのは魂だ。お前の魂に、この曲を奏でるだけの情熱があるかどうかだ」

 その時、静香がそっと現れた。彼女の表情は優しく、樹里を見つめる眼差しには母性的な温かさが宿っていた。

「樹里さん、焦ってはいけません。音楽は一朝一夕に身につくものではありません」

「でも、静香さん......」

「私も生前、何度も挫折しました」静香は窓辺に近づき、月光に照らされた中庭を見つめた。「女性が作曲家になることを誰も認めてくれない時代でした。何度筆を折ろうと思ったことか」

 静香の声には、深い悲しみが込められていた。

「それでも続けられたのは、音楽への愛があったからです。技術は後からついてきます。まず心を、魂を、音楽に捧げることから始めるのです」

 樹里は静香の言葉に心を打たれた。しかし、現実の壁は依然として高かった。

「心の準備はできています。でも、体がついていかないんです」

 樹里は腫れ上がった指を見せた。エドワードがその指を見て、初めて表情を和らげた。

「ふむ、確かに無理をしすぎているようだ。だが、それは正しい道のりだ」

「正しい道のりって?」

「真の芸術は苦痛の先にある。お前の指が血を流すのは、魂が楽譜と一体になろうとしている証拠だ」

 エドワードの言葉に、樹里は複雑な想いを抱いた。音楽のために体を犠牲にすることが正しいのだろうか。しかし、目の前にいる二人の霊は、確実にそうやって生きてきたのだ。

 一週間が過ぎた。樹里の演奏技術は確実に向上していたが、まだエドワードの楽譜を完璧に演奏するには程遠かった。そして、肉体的な限界も近づいていた。

 ある夜、練習を終えた樹里が帰り支度をしていると、修平が深刻な表情で話しかけてきた。

「樹里、君の様子がおかしい。最近、霊たちと話している時の君は、まるで別人のようだ」

「何を言っているの?」

「君の目に生気がない。まるで......まるで魂を吸い取られているみたいに見える」

 修平の指摘に、樹里ははっとした。確かに最近、日常生活に興味を持てなくなっていた。食事も睡眠も最低限に抑え、音楽のことだけを考えている。

「でも、これが音楽家としての道なのよ」

「本当にそうか?」修平は樹里の肩を掴んだ。「君が目指していた音楽家って、こんな風だったか?」

 その時、練習室の温度が急激に下がった。エドワードと静香が同時に現れ、修平を鋭い目で見つめた。

「邪魔をするな、少年」エドワードの声が氷のように冷たかった。「樹里は我々の願いを叶えるために選ばれた者だ」

「樹里さんには、私たちの想いを理解してもらわねばなりません」静香も普段の優しさを失い、厳しい表情を見せていた。

 修平は怯まずに言い返した。

「樹里は君たちの道具じゃない!」

 その瞬間、練習室の空気が震えた。どこからともなく、あの謎の少年の笑い声が響いてきた。

「始まったね......本当の恐怖が」

 樹里は震え上がった。霊たちの本当の目的が、徐々に明らかになり始めているのを感じていた。

夜想曲と紡がれた亡霊

12

重圧と責任

月村 奏子

2026-04-01

前の話
第12話 重圧と責任 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版