冷気が部屋を包み込む中、修平の体は硬直していた。あの低く響く少年の笑い声は、まるで氷の刃のように二人の心を貫いていく。樹里は修平の手を握り締め、静かに首を振った。
「まだよ。今は危険すぎる」
樹里の囁きに、笑い声は次第に遠ざかっていく。室温もゆっくりと元に戻り始めた。修平は大きく息を吐き、額の汗を拭った。
「あれが、君の言っていた危険な霊か」
「そう。でも今夜の目的は別にある」
樹里は立ち上がり、練習室の奥へと向かった。そこには古いグランドピアノが置かれている。月明かりが窓から差し込み、黒い鍵盤を薄っすらと照らし出していた。
「エドワード様、静香様。お二人にお話があります」
樹里の呼びかけに応えるように、空気が微かに揺らいだ。そして、あの優雅で威厳に満ちた声が響く。
「ようやく来たな、樹里」
エドワードの姿が、ピアノの前にゆっくりと浮かび上がった。19世紀の正装に身を包んだ長身の男性。その瞳には深い悲しみと、音楽への燃えるような情熱が宿っている。
続いて、ピアノの右側に和服姿の女性が現れた。静香だった。上品な佇まいの中にも、芯の強さを感じさせる凛とした表情をしている。
修平は目を見開いた。確かに、そこに二つの人影があることが分かる。輪郭は薄く、透けているが、間違いなく存在している。
「本当に、いるんだな」
修平の呟きに、静香が微笑みかけた。
「疑い深い方ですのね。でも、それが普通の反応でしょう」
「修平は私の大切な友達です。信頼してください」
樹里の言葉に、エドワードは興味深そうに修平を見つめた。
「ほう。君もピアノを弾くのか?」
「はい。でも、樹里ほど上手ではありません」
「謙遜は美徳だが、過ぎれば音楽の敵となる。自信を持てる演奏をしなさい」
エドワードの言葉には、教師としての威厳があった。修平は思わず背筋を伸ばす。
「それで、今夜は何の用で?」
静香が優しく尋ねた。樹里は深呼吸をしてから口を開く。
「お二人の願いを、きちんと聞かせてください。私にできることがあるなら、力になりたいのです」
エドワードと静香は視線を交わした。長い沈黙の後、エドワードが重い口を開く。
「我々の願い、か。樹里よ、君は音楽をどう思う?」
「音楽は、魂の言葉だと思います。言葉で表せない想いを、音に託すものだと」
「その通りだ。だが、我々はその言葉を完璧に話すことができずに死んだ」
エドワードの声に、深い悔恨が滲んだ。静香も悲しそうに頷く。
「私は生前、一度も自分の作品を公の場で演奏してもらえませんでした。女性だからという理由で」
「私もまた、未完の傑作を残したまま病に倒れた。完璧な演奏を追求し続けたが、ついに到達することはできなかった」
二人の告白に、樹里の胸が痛んだ。音楽に人生を捧げながらも、志半ばで世を去らなければならなかった無念さが、ひしひしと伝わってくる。
「それで、私に何を?」
「君に演奏してもらいたい。私たちの音楽を、完璧な形で」
エドワードの言葉に、樹里は息を呑んだ。
「でも、私はまだ学生です。完璧な演奏なんて」
「君になら可能だ」静香が口を挟んだ。「あなたには私たちの想いを理解する心がある。技術は後からついてくる」
修平が心配そうに樹里を見つめる。
「それって、危険なことなのか?」
エドワードが苦笑いを浮かべた。
「危険といえば危険だな。霊の想いを音楽に込めるということは、演奏者の魂と我々の魂が一体になることを意味する」
「もし失敗すれば?」
「最悪の場合、樹里の魂が我々と同じく、この世に留まることになる」
修平の顔が青ざめた。しかし樹里は、意外にも落ち着いていた。
「お二人は、どうしてもその演奏を実現させたいのですね」
「ああ。これは我々の最後の願いだ」
「我々が成仏するための、唯一の道でもあります」
樹里は長い間考え込んだ。音楽への愛、霊たちの無念、そして自分自身の成長。全てが複雑に絡み合っている。
「分かりました。やってみます」
「樹里!」
修平が制止しようとしたが、樹里は決意を込めて首を振った。
「私も音楽家の端くれです。音楽に人生を捧げた方々の想いを、無視することはできません」
エドワードと静香の表情が、希望に満ちた光を帯びた。
「ありがとう、樹里。だが、これは並大抵の修行では成し遂げられない」
「覚悟はできています」
「なら、明日の夜から始めよう。まずは私の未完の協奏曲第3番から」
「私の『月夜想』も、ぜひお願いします」
二人の霊の姿が次第に薄くなっていく。夜明けが近づいているのだ。
「待って」修平が声を上げた。「僕も手伝わせてくれ」
エドワードが振り返る。
「君に何ができる?」
「分からない。でも樹里を一人にはできない」
静香が微笑んだ。
「良い友達をお持ちですのね、樹里さん」
「では、君には樹里の安全を守ってもらおう。霊との交流は危険を伴う」
エドワードの承認に、修平は安堵した。
「それと」静香の声が緊張を帯びた。「あの少年の霊には充分気をつけて。彼だけは、まったく別の存在です」
「別の存在?」
「詳しくは明日話します。今夜はここまでに」
二人の霊の姿が完全に消えた。練習室には再び静寂が戻る。
樹里と修平は並んでピアノの前に座った。
「本当に大丈夫なのか?」
修平の不安に、樹里は優しく微笑みかけた。
「分からない。でも、やらなければならないことだと思う」
「なぜそこまで?」
「音楽が好きだから。そして、彼らの想いに応えたいから」
朝の光が窓から差し込み始めた。二人は練習室を後にする。
廊下を歩きながら、樹里の心には新たな決意が宿っていた。困難な道のりになるだろう。しかし、音楽への真の愛を学ぶためには避けて通れない試練なのかもしれない。
そのとき、どこからか低い笑い声が聞こえた。あの少年の霊の気配が、まだ彼らの周りに残っているのだ。