朝露がまだ乾ききらない午前の静寂の中、楓は茶房の掃除をしていた。昨夜の涙の跡は消えていたが、心の奥に沈んだ重いものは取り除くことができずにいた。

 祭りの夜、時雨と過ごした甘い時間。盆踊りの輪の中で、彼の温かい手に触れた瞬間の幸福感。それらすべてが、冬木老人の言葉によって色褪せてしまったかのようだった。

 鈴の音が響いて、入り口の戸が開く。振り返ると、時雨が立っていた。いつもの飄々とした表情ではなく、どこか沈んだ面持ちをしている。

「おはよう、楓」

「おはよう」

 二人の間に横たわる見えない壁を、楓は痛いほど感じた。昨夜まであった自然な親しさが、まるで遠い昔のことのように思える。

 時雨は迷うように店内を見回した後、窓際の席に腰を下ろした。楓は黙ってお茶の準備を始める。いつものように、彼の好みを知り尽くした手つきで。

「楓」

 時雨の声が、静寂を破った。

「昨夜のこと、老人の言葉について話さなければならないことがある」

 楓の手が、茶器を持つまま止まった。

「私は季節神として生まれ、この世界の調和を保つ使命を負っている。人間との深い関わりは、確かに危険を孕んでいる」

 時雨の言葉は、楓の胸に鋭く刺さった。

「でも」と時雨は続けた。「君と出会って、初めて知ったんだ。心が温かくなるということを。季節を司る者として、私は常に客観的でなければならなかった。春夏秋冬、すべてを平等に愛し、偏ってはいけない存在だった」

 楓は茶を淹れる手を止めて、時雨を見つめた。彼の瞳に宿る優しさと、同時に漂う諦めのような色合いに気づく。

「君といると、私の中で季節が乱れる。君の笑顔を見れば春が来て、君が悲しめば私の心に雨が降る。これは、季節神としてあってはならないことなのかもしれない」

「時雨さん」

 楓は茶器を置いて、ゆっくりと時雨の前に歩み寄った。

「私も同じです。あなたと出会ってから、お客様の心を読み取る力に変化が生まれました。以前は客観的に人の気持ちを感じ取ることができたのに、今は自分の感情が混じってしまう」

 楓は時雨の向かいに座った。

「特に、あなたの前では。あなたの心を読み取ろうとすると、自分の想いが溢れてきて、うまくいかないんです」

 時雨は苦しそうに微笑んだ。

「やはり、私たちは離れるべきなのだろうか」

 その言葉に、楓の胸が締め付けられた。離れる、という言葉の響きが、なぜこれほど辛いのだろう。

「でも」楓は声を震わせながら言った。「私は季節の守護者として目覚めつつある。冬木さんはそうおっしゃいました。それなら、私も人間を超えた存在になっていくのでしょうか」

 時雨の瞳に、希望のような光が宿った。

「それでも、危険は変わらない。君が守護者として完全に覚醒するまでは、私たちの関係は世界の均衡を脅かす可能性がある」

 沈黙が二人を包んだ。茶房の中に響くのは、古い柱時計の秒針の音だけ。

 やがて楓が口を開いた。

「少し、距離を置きましょうか」

 その言葉を発する時の痛みは、想像以上だった。

「君の心を読まなくても、その言葉がどれほど辛いか分かる」時雨は楓の手にそっと触れた。「私にとっても同じだ」

 楓は時雨の手の温かさを記憶に刻み込もうとした。

「でも、これは永遠のお別れではありませんよね」

「もちろんだ」時雨は楓の手を優しく包んだ。「君が真の守護者として覚醒した時、私たちの愛が世界にとって祝福となるか、それとも呪いとなるか、その答えが出るはずだ」

 楓は頷いた。涙が頬を伝うのを感じながら。

「それまでは、普通のお客様として時々お茶を飲みに来てください」

「ああ、そうしよう」

 時雨は立ち上がり、楓も同様に立った。

「楓、一つだけ約束してほしい」

「はい」

「君がどれほど辛くても、どれほど孤独を感じても、決して自分を責めないでほしい。私たちが出会ったこと、愛し合うようになったことを、決して後悔しないでほしい」

 楓は涙声で答えた。

「私こそ、時雨さんにお願いがあります。私のせいで、あなたが季節神としての使命を見失うようなことがあっても、決してご自分を責めないでください」

 時雨は微笑んで頷いた。

「では、しばらく」

「はい、しばらく」

 時雨は振り返ることなく茶房を出て行った。楓は彼の後ろ姿を見送り、戸が閉まる音を聞いた。

 一人になった茶房で、楓は窓際の席に崩れ落ちた。時雨が座っていた椅子は、まだ彼の温もりを残していた。

 外では、まるで時雨の心を映すかのように、雲が太陽を隠し始めていた。季節外れの冷たい風が、茶房の風鈴を鳴らしている。

 楓は胸に手を当てた。心の奥で、何かが目覚めようとしているのを感じる。守護者としての力なのか、それとも別の何かなのか。

 今はまだ分からない。ただ一つ確かなのは、時雨への愛が消えることは決してないということだった。そしてその愛が、やがて世界にとって祝福となることを、楓は心の奥で信じていた。

 午後になって春香がやって来た時、楓は涙の跡を隠して笑顔で迎えた。だが、親友の鋭い眼差しは楓の心の変化を見逃さなかった。

「楓、何があったの?」

 春香の優しい声に、楓の作り笑いが崩れた。すべてを話すわけにはいかないが、友の温かさが今の楓には何より必要だった。

 茶房の外では、季節外れの雨が降り始めていた。

風待ち茶房と失われた季節

22

禁じられた愛

水無月 雅

2026-04-11

前の話
第22話 禁じられた愛 - 風待ち茶房と失われた季節 | 福神漬出版