蝉の声が商店街に響く七月の終わり、古い街並みに赤い提灯が揺れていた。年に一度の夏祭りが近づき、普段は静かな通りも賑わいを見せている。

 楓は茶房の前で、商店会長の田中さんと打ち合わせをしていた。

「風待ち茶房さんには、やっぱり冷たいお茶とかき氷をお願いしたいんですが」

「承知いたしました。準備させていただきます」

 楓が頷くと、店の奥から時雨が現れた。彼は最近、祭りの準備を手伝うという名目で茶房に顔を出すことが多くなっていた。

「氷は僕が用意しましょうか」

 時雨のさりげない申し出に、田中さんは喜んだ。

「ありがたい。若い男手があると助かります」

 田中さんが去った後、楓は時雨に向き直った。

「いつもすみません。お客様なのに」

「構いません。この街に住む以上、僕も住民の一人ですから」

 時雨の言葉に、楓の胸がわずかに高鳴る。彼がここに住み続けるつもりでいることが嬉しかった。

 祭り当日。商店街は浴衣姿の人々で溢れかえっていた。茶房も普段とは様子を変え、店先に縁台を並べて即席の茶店となっている。

 楓は薄紫の浴衣に身を包み、髪をすっきりとまとめていた。普段とは違う装いに、時雄も見惚れているようだった。

「楓さん、その浴衣よく似合ってる」

「ありがとうございます。時雨さんも」

 紺色の浴衣を着た時雨は、どこか涼しげで夏の夜に映えていた。

 祭りが始まると、茶房の前にも行列ができた。楓特製の冷茶と、時雨が作る絶妙な氷のかき氷が評判を呼んでいるのだ。

「うわあ、この氷、すっごく美味しい」

「涼しくなるわね」

 客たちの声に、楓は時雨を見やった。彼が手をかざすだけで、氷は美しく削られ、ほのかな甘みさえ帯びる。季節を司る力の一端を垣間見るたび、楓は改めて彼の正体を意識せずにはいられなかった。

 夕暮れが近づく頃、春香が浴衣姿で現れた。

「楓ちゃん、お疲れさま。すごい盛況じゃない」

「春香さん。拓海さんのことは大丈夫?」

「うん。おかげで早めに気づけたから。それより」

 春香は意味深に微笑んで、時雨の方を見た。

「今夜は二人で祭りを楽しんだら?私が後片付けしておくから」

「でも」

「いいから、いいから」

 春香に押し切られ、楓は時雨と連れ立って祭りの会場へ向かった。

 商店街は提灯の明かりに染まり、太鼓の音が夜空に響いていた。二人は射的や輪投げの屋台を冷やかしながら歩く。

「時雨さんは、お祭り慣れしていらっしゃるんですね」

「そうですね。長く生きていると、色々な祭りを見てきましたから」

 ふと漏らした時雨の言葉に、楓はドキリとした。彼の正体について、まだ知らないことが多すぎる。

 神社の境内では盆踊りが始まっていた。老人から子どもまで、輪になって踊っている。

「踊りませんか」

 時雨が手を差し伸べた。楓は少し戸惑ったが、その手を取った。

 音楽に合わせて踊りながら、楓は時雨との距離の近さを意識していた。彼の手の温もり、すれ違う瞬間の香り。胸の奥で何かが芽生えているのを感じる。

 踊りが終わると、二人は境内の隅に腰を下ろした。

「楓さん」

「はい」

「僕は」

 時雨が何かを言いかけた時、突然風が吹いた。不自然な風だった。夏の夜にもかかわらず、どこか冷たい。

 楓は振り返り、そこに冬木老人の姿を認めた。老人はいつになく厳しい表情をしていた。

「時雨よ」

 老人の声が二人に届く。

「忘れているのではないか。お前は季節神。人間との恋など」

「冬木さん」

 楓が立ち上がろうとすると、時雨が制した。

「分かっています」

 時雨の声は沈んでいた。

「しかし、僕には」

「掟は掟だ。季節を司る者が人間に心を奪われれば、季節は乱れる。それがどれほど恐ろしいことか、お前も知っているはずだ」

 老人の言葉に、楓の心は凍りついた。季節神。掟。恋の芽生えを否定する言葉たちが、胸に突き刺さる。

「楓さんは何も悪くない」

 時雨が楓を守るように前に出た。

「悪いのは僕です。分かっていながら、彼女に近づいてしまった」

「時雨さん」

 楓の声を遮るように、老人は続けた。

「楓よ。お前も季節の守護者として目覚めつつある。ならば分かるはずだ。禁じられた恋がどれほど危険か」

 楓は言葉を失った。胸の奥で確かに芽生えていた想い。それが禁じられたものだと知って、心が引き裂かれそうになる。

 祭りの音楽は続いているが、三人の周りだけに重い沈黙が流れた。

「僕は」

 時雨が口を開きかけた時、楓が立ち上がった。

「すみません。私、帰ります」

 楓は二人を残して駆け出した。浴衣の裾を翻し、祭りの人混みを縫って茶房へ向かう。

 胸が苦しかった。せっかく芽生えた想いが、現実の重みで押し潰されそうになる。店に着くと、春香が心配そうに迎えてくれた。

「楓ちゃん、どうしたの?」

 楓は首を横に振って、店の奥へ消えた。

 一人になって初めて、涙が溢れた。祭りの音楽が遠くから聞こえる中、楓は自分の運命の重さを噛みしめていた。

 季節の守護者として生きること。それは時雨との想いを諦めることを意味するのだろうか。

 窓の向こうで、夏の夜が静かに更けていく。楓の心に、初めて恋の苦しみという季節が訪れていた。

風待ち茶房と失われた季節

21

商店街の夏祭り

水無月 雅

2026-04-10

前の話
第21話 商店街の夏祭り - 風待ち茶房と失われた季節 | 福神漬出版