夜の帳が降りた商店街は、昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれていた。風待ち茶房の窓からは温かな光が漏れ、街灯に照らされた石畳に優しい影を落としている。
楓は最後の客を見送ると、深いため息をついた。田中青年の一件以来、心読みの力について考えることが多くなった。人の心が見えるということの重み、そしてその力をどう使うべきなのか。答えはまだ見つからずにいる。
カウンターを拭きながら、ふと店内に漂う微かな季節外れの風を感じた。肌に触れるそれは、夏の終わりを思わせる湿った暖かさを含んでいる。
「時雨?」
振り返ると、いつものように音もなく現れた時雨が、窓際の席に腰掛けていた。月明かりが彼の横顔を浮かび上がらせ、いつもより影のある表情を見せている。
「お疲れ様。今日も大変だったようだね」
時雨の声には、いつものような軽やかさがなかった。楓は手を止めて、彼の方へと歩いていく。
「どうしたの? 何だか元気がないみたい」
「君には敵わないな」
苦笑を浮かべる時雨の前に、楓は静かに腰を下ろした。彼の心から漂ってくる感情は複雑で、普段の飄々とした態度の奥に隠された重いものを感じ取る。
「時雨、あなたのことを私はまだ何も知らない。教えてくれる?」
楓の問いかけに、時雨は長い間沈黙した。外を歩く猫の足音が石畳に響き、遠くで終電の音が聞こえてくる。
「過去の話をするのは好きじゃないんだが」
そう言いながらも、時雨は語り始めた。
「僕が季節神として生まれたのは、もうずいぶん昔のことだ。人間の時間で言えば、数百年は経っているだろう。最初の頃は自分の役割に疑問を抱くこともなかった。季節を巡らせ、自然の摂理に従って生きていく。それが当然だと思っていた」
時雨の指先が、テーブルの上で小さな雪の結晶を作り出す。それはすぐに融けて水滴となり、木製の表面に染み込んでいった。
「でも、人間と関わるうちに変化が生まれた。最初は単なる好奇心だった。短い生命の中で、これほどまでに激しく生きる存在がいることに驚いた」
楓は黙って耳を傾けていた。時雨の心からは、懐かしさと痛みが同時に流れてくる。
「そして、一人の人間の女性に恋をした」
その言葉に、楓の胸がざわめいた。嫉妬なのか、それとも別の感情なのか、自分でも判然としない。
「彼女は画家だった。季節の移ろいを絵に描くのが好きで、よく僕の作り出す風景を見つめていた。もちろん、僕が季節神だということは知らなかったけれど」
時雨の表情が、記憶の中の光景を追っているように遠くを見つめる。
「名前は雪乃と言った。雪のように純粋で、でも心の奥には燃えるような情熱を秘めた人だった。僕は彼女に惹かれ、人間として彼女の前に現れるようになった」
楓は息を呑んだ。季節神が人間に恋をするということが、どれほど危険なことなのか、本能的に理解していた。
「最初のうちは何も問題はなかった。でも、僕が彼女を愛すれば愛するほど、季節を操る力が不安定になっていった。春に雪を降らせ、真夏に木々を枯らせる。自然の摂理を乱すことが増えていった」
時雨の手のひらに、今度は小さな花が咲いた。桜のような淡いピンク色の花弁が、この季節には似つかわしくない美しさで輝いている。
「それでも僕は彼女を諦められなかった。人間として生きることができるなら、力を失っても構わないと思った」
「それで、どうなったの?」
楓の問いに、時雨は悲しげに微笑んだ。
「彼女は病気で亡くなった。僕の力が不安定になったせいで、季節の境界が曖昧になり、疫病が流行った。多くの人が犠牲になり、雪乃もその中の一人だった」
楓は息を詰めた。時雨の心から溢れ出る痛みと後悔が、まるで自分のもののように胸を締め付ける。
「僕の愛が、彼女を殺したんだ」
その言葉の重さに、楓は何も言えなくなった。時雨がなぜ自分に対してあれほど複雑な態度を取るのか、ようやく理解できた。
「君を見ていると、雪乃を思い出す。同じように人を愛し、同じように純粋で強い。でも僕は、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない」
時雨は立ち上がり、窓の方へと歩いていく。月光が彼の後ろ姿を銀色に染め、どこか儚げに見えた。
「君が守護者として目覚めつつあることは分かっている。でも僕と関わることで、君まで道を踏み外すかもしれない。それが一番怖いんだ」
楓も立ち上がり、時雨の後ろに立った。彼の肩越しに見える夜景は、いつもと変わらぬ静かな商店街の風景だった。
「時雨」
「何だい?」
「過去の痛みから逃れようとして、今を諦めてしまうのは正しいことなの?」
時雨の肩が、わずかに震えた。
「君は、雪乃さんじゃない。そして私も、あなたの過去に囚われた人間じゃない。同じことが起こるとは限らないでしょう?」
楓の言葉に、時雨はゆっくりと振り返った。その瞳には、希望と諦めが入り混じった複雑な光が宿っている。
「君は強いな、楓。雪乃もそうだった。でも強さがあるからこそ、失った時の痛みも大きくなる」
「それでも」
楓は時雨の手を取った。冷たいその手に、自分の温もりを伝えようとする。
「それでも、愛することを諦めたくない。あなたが教えてくれた季節の美しさ、人と人とのつながりの大切さ、そのすべてが愛から生まれているのでしょう?」
時雨の瞳が、わずかに潤んだ。
「君と出会えて良かった。でも、それと同時に、とても怖いんだ」
二人の間に、静寂が流れた。時計の針音だけが、時の流れを刻んでいる。
やがて時雨が口を開いた。
「もう少し時間をくれ。僕の中で整理しなければならないことがある」
楓は頷いた。急かすつもりはない。ただ、彼の痛みを理解し、支えることができるなら、それで十分だった。
「私は待っている。あなたが答えを見つけるまで、ずっと」
時雨は楓の手を握り返し、そっと額を彼女の額に寄せた。
「ありがとう」
その後、時雨はいつものように忽然と姿を消した。残された楓は、彼の温もりの名残を胸に、深い思索にふけっていた。愛することの重さ、失うことの痛み、そして希望を捨てないことの大切さ。
窓の外で、季節外れの雪がちらつき始めていた。