街角の古い鏡屋の店先で、千鶴は足を止めた。そこに映った自分の顔が、いつもと違って見えたのだ。
唇の端がわずかに歪み、まるで嘲るような笑みを浮かべている。慌てて手を上げると、鏡の中の自分も同じように手を上げたが、その表情だけは冷ややかなままだった。
「そんな馬鹿な」
千鶴は首を振り、足早にその場を立ち去った。きっと見間違いだろう。父の遺書を読んでから、気が動転しているのだ。心魂草のことを知ってしまった動揺が、こんな幻覚を見せているに違いない。
約束の寺の境内に向かう道すがら、千鶴の心は重くのしかかる現実に押し潰されそうになっていた。父が鏡花会と関わりがあったという事実。そして心魂草という恐ろしい薬草の存在。
境内の大きな銀杏の木の下で、慎之助はすでに待っていた。千鶴の姿を認めると、彼は駆け寄ってきた。
「千鶴、無事だったか。問屋の様子はどうだった?」
「追っ手が来たけれど、なんとか逃れたわ」千鶴は懐から父の手紙を取り出した。「これを見て。父の遺書よ」
慎之助は手紙に目を通し、顔色を変えた。
「心魂草……まさか、お雪さんの症状はこの薬草によるものなのか」
「そうに違いないわ。でも父の手紙によれば、心魂草には人を救う力もあるという。正しく使えば、お雪さんを元に戻せるかもしれない」
慎之助は眉をひそめた。
「だが、その方法を知っているのは鏡月斎だけということになる。あの男に近づくのは危険すぎる」
「それでも、やるしかないのよ」
千鶴がそう言いかけた時、境内の向こうから見知った顔が現れた。薬草問屋で働いていた手代の佐吉だった。しかし彼の顔は青白く、目は虚ろに宙を見つめている。
「佐吉さん?」
千鶴が声をかけると、佐吉はゆっくりと振り返った。その瞬間、千鶴は息を呑んだ。佐吉の顔が、父の顔に見えたのだ。
「千鶴……」
父の声で佐吉が話しかけてくる。千鶴は後ずさりした。
「気をつけるのだ、千鶴。心魂草の毒は既にお前にも及んでいる」
「そんな、私は心魂草なんて」
「いいや」慎之助が千鶴の肩を掴んだ。「千鶴、佐吉さんはそんなことは言っていない。彼はただ『お嬢様はどちらに』と聞いただけだ」
千鶴は慎之助を見つめた。彼の表情は困惑に満ちている。
「私には確かに父の声が聞こえたのよ」
「千鶴……」慎之助の声に不安が滲んだ。「君にも症状が現れているのかもしれない」
その夜、千鶴は自宅の奥座敷で一人、鏡に向かっていた。手鏡を持つ手が震えている。そこに映る自分の顔を見つめながら、混乱した思考を整理しようとしていた。
いつから症状が始まっていたのだろう。お雪に初めて会った時、彼女の瞳に映った自分の姿が違って見えたのも、もしかすると幻覚だったのかもしれない。鏡花会の男たちと戦った時、迷霧花の煙に巻かれた自分も心魂草の影響を受けたのだろうか。
鏡の中の自分がゆっくりと口を開いた。
「もう手遅れよ、千鶴」
千鶴の口は動いていないのに、鏡の中の自分だけが話している。
「心魂草の毒が回り始めている。やがて現実と幻覚の区別がつかなくなる。お雪のように」
「違う」千鶴は鏡に向かって首を振った。「私は正気よ。これは幻覚。ただの幻覚」
「そうかしら」鏡の中の千鶴は薄笑いを浮かべた。「もしかすると、今まで見てきたものこそが幻覚で、これが本当の現実かもしれないわよ」
千鶴は手鏡を伏せ、両手で顔を覆った。頭痛がひどくなってきている。こめかみの辺りがずきずきと痛み、視界がぼやけてくる。
ふと顔を上げると、部屋の隅に人影があった。
「父上?」
白川玄庵が静かにそこに立っている。生前と変わらない穏やかな表情で、千鶴を見つめていた。
「千鶴、よく聞くのだ」
父の声は確かに聞こえている。幻覚だとわかっていても、千鶴は父の言葉に耳を傾けた。
「心魂草の毒を中和する方法がある。月光草という薬草を煎じて飲むのだ。しかし、それだけでは完全には治らない」
「どうすれば」
「真実を見極める心を持つのだ。自分が信じるもの、大切にしたいものをしっかりと胸に抱け。それが幻覚に打ち勝つ唯一の方法だ」
父の姿がゆらゆらと揺らぎ、やがて消えていった。後には静寂だけが残る。
千鶴は立ち上がり、薬草の保管庫に向かった。月光草があることを確認し、すぐさま煎じ薬の準備にかかった。湯が沸く間、彼女は慎之助のことを考えていた。
幼い頃から変わらず自分を支えてくれる彼の存在。それだけは確実に真実だと信じることができる。どんな幻覚が見えても、慎之助への想いだけは本物だった。
月光草の煎じ薬を飲み干すと、頭痛が少し和らいだような気がした。しかし根本的な解決には至らない。父の言葉が本当なら、自分自身の心の強さが試されている。
翌朝、千鶴は慎之助と再び会った。彼女は昨夜の出来事を正直に話した。
「私にも症状が現れているわ。でも、月光草である程度は抑えられそうよ」
慎之助は深刻な表情で頷いた。
「それなら尚更、急がなければならない。鏡月斎を見つけ出し、心魂草の完全な解毒方法を聞き出すしかない」
「でも、どうやって彼を見つけるの? 鏡花会の居場所もわからないのに」
慎之助は懐から一枚の紙を取り出した。
「同心仲間から情報を得た。城下の外れにある古い屋敷で、夜な夜な奇怪な実験が行われているという噂がある。そこが鏡花会の本拠地かもしれない」
千鶴の心に決意が固まった。自分の症状が進行する前に、真実にたどり着かなければならない。お雪を救うためにも、そして自分自身のためにも。
しかし、街を歩く千鶴の目に映る景色は、既に現実と幻覚が入り混じり始めていた。通りすがりの人々の顔が時折歪んで見え、存在しないはずの影が建物の間をすり抜けていく。
果たして自分は、真実にたどり着くことができるのだろうか。それとも幻覚の迷宮に飲み込まれてしまうのだろうか。
千鶴は慎之助の手を強く握りしめた。この温もりだけは、決して幻覚ではない。そう信じて、彼女は歩き続けた。