月明かりが古い石畳を照らし、夜風が軒先を揺らしていた。寺を出てから屋敷まで歩く道すがら、千鶴は時折足を止めては月光草の苦い味を思い出していた。あの薬草がなければ、今頃自分の心はもっと深い闇の中を彷徨っていたかもしれない。
しかし隣を歩く慎之助の横顔は、いつもより険しく見えた。普段なら千鶴の歩調に合わせてくれる彼が、今夜は少し先を歩いている。その距離が、千鶴には妙に気になった。
「慎之助さん」
声をかけると、彼は振り返ったが、その眼差しには複雑な感情が宿っていた。
「千鶴、少し話がある」
慎之助は立ち止まり、千鶴と向き合った。街灯の乏しい小路で、二人の影が石畳に長く伸びている。
「さっき寺で、お前の様子がおかしかった」
千鶴の胸が締め付けられた。やはり気づかれていたのだ。
「どういう意味ですか」
「とぼけるな」慎之助の声に厳しさが混じった。「お前も心魂草の影響を受けているんだろう。鏡に向かって独り言を言ったり、急に震え出したり……普通ではない」
千鶴は唇を噛んだ。確かに自分でも気づいていた異常を、慎之助に指摘されると、それが現実であることを改めて突きつけられた気分だった。
「だから何だと言うのですか」
「何だと?」慎之助の眉が寄った。「お前を危険に晒すわけにはいかない。これ以上この事件に関わるな」
その言葉に、千鶴の心に怒りが湧き上がった。
「私を子供扱いしないでください。確かに私にも症状が現れ始めているかもしれません。でも、それがどうしたというのですか」
「どうしたって……」慎之助は絶句した。「お前の身の安全を心配しているんだ」
「心配など無用です」千鶴は一歩前に出た。「私にはこの事件を解決しなければならない理由があります。お雪さんのこと、父のこと、そして真実を知りたいという気持ち。それらを諦めるつもりはありません」
慎之助の表情が曇った。月光が彼の顔に複雑な陰影を作り出している。
「千鶴、お前は……」
「私はどうだと言うのですか」
千鶴の声が震えた。それは怒りなのか、それとも不安なのか、自分でもよくわからなかった。
「お前は既に正常な判断ができなくなっているかもしれない。心魂草の影響で、現実と幻覚の区別がついていないのかもしれない」
その指摘は千鶴の心の奥深くに突き刺さった。実際、最近の自分の記憶や感覚に確信が持てないことが多かった。鏡に映る自分の顔、父の幻影、そして今この瞬間さえも、本当に現実なのかわからなくなることがある。
「それでも」千鶴は声を振り絞った。「私は行きます」
「駄目だ」慎之助は首を振った。「同心として、そして幼馴染として、お前を守る責任がある」
「責任?」千鶴は苦笑した。「慎之助さん、あなたは私を信じてくださらないのですね」
「信じるとか信じないとかの問題ではない」
「いえ、それこそが問題です」千鶴の目に涙が滲んだ。「あなたは私の異常を恐れているのです。私が正気を失い、足手まといになることを」
慎之助は何かを言いかけて口を閉じた。その沈黙が、千鶴には何よりも雄弁だった。
風が二人の間を吹き抜けていく。街の向こうから聞こえてくる夜鷹の声が、妙に物悲しく響いた。
「わかりました」千鶴は小さく頷いた。「慎之助さんが私を信じてくださらないのなら、一人で行きます」
「千鶴、待て」
しかし千鶴は踵を返し、歩き始めた。慎之助の呼び声が背中に届いたが、振り返らなかった。振り返れば、また迷いが生じてしまいそうだった。
一人で歩く夜道は、いつもより暗く感じられた。街灯の光が揺らめき、影がまるで生き物のように蠢いて見える。千鶴は立ち止まり、深く息を吸った。月光草の効果がまだ残っているはずだ。落ち着かなければならない。
ふと、角の向こうから人影が現れた。着物の裾を引きずった女性の影だったが、顔が見えない。千鶴は身を竦めた。
「お雪さん?」
その人影は千鶴の方を振り返った。しかし顔があるべき場所には、ぼんやりとした光があるだけだった。千鶴は思わず後ずさりした。
「これも幻覚なの?」
人影はゆっくりと手を上げ、千鶴を手招きした。そして静かに歩き去っていく。千鶴は迷った。追いかけるべきか、それとも無視すべきか。
その時、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、慎之助が走ってくるのが見えた。
「千鶴!」
彼の声を聞いた途端、人影は霧のように消えてしまった。千鶴はその場に立ち尽くした。
「今、そこに……」
「何があった?」慎之助が息を切らして千鶴の前に立った。
「人影が……でも、もういません」
慎之助は周囲を見回したが、当然何も見つからなかった。彼は千鶴を見つめ、複雑な表情を浮かべた。
「千鶴、やはりお前は……」
「もういいです」千鶴は彼の言葉を遮った。「慎之助さんの言う通り、私はもう正常ではないのかもしれません。でも、だからこそ鏡月斎を見つけなければならないのです」
「なぜそこまで固執する」
「固執?」千鶴は悲しげに微笑んだ。「慎之助さんには理解していただけないでしょうね。私の中にある、この焦燥感を」
千鶴は胸に手を当てた。そこには確かに、何かに急き立てられるような感情があった。それは心魂草の影響なのか、それとも本当に父や真実への想いなのか、もはや区別がつかなかった。
「千鶴……」
慎之助の声に迷いが滲んでいた。千鶴はその変化を敏感に感じ取った。
「あなたも気づいているのでしょう?私がもう、昔の白川千鶴ではないことを」
慎之助は答えなかった。しかしその沈黙こそが答えだった。
千鶴は再び歩き始めた。今度は慎之助も無言で後をついてきた。二人の間には、見えない壁ができてしまったようだった。
目的地の屋敷まで、あと少しの距離があった。しかし千鶴には、それがとても遠い道のりに感じられた。慎之助の信頼を失った今、彼女は本当に一人になってしまったのだろうか。
月が雲に隠れ、辺りが急に暗くなった。千鶴の心に、深い孤独感が押し寄せてきた。