朝の光が薄く差し込む中、千鶴は寝床で身を起こしていた。昨夜から頭を離れない記憶の断片が、まるで霞のように曖昧で掴み所がない。あの奇妙な体験は夢だったのだろうか。それとも——。
「千鶴、起きているか」
慎之助の声が戸の向こうから聞こえた。千鶴は慌てて身支度を整え、格子戸を開ける。
「おはよう。早いのね」
「鏡月斎について、新しく分かったことがある」
慎之助の表情は険しく、一晩中調べ物をしていたのか、目の下に薄い隈ができていた。千鶴は茶を入れながら彼の話に耳を傾けた。
「郊外の古い屋敷を借り受けているらしい。表向きは静養のためと言っているが、夜中に人の出入りがあるという目撃情報がいくつも寄せられている」
千鶴の手が僅かに震えた。茶碗に注がれる湯の音だけが、しばらく静寂を支配する。
「それで、今夜お雪さんもそこへ呼ばれるということなのね」
「ああ。だが問題は、その屋敷の正確な場所がまだ掴めていないことだ。聞き込みでは、街道から外れた竹林の奥にあるという話だが——」
千鶴は湯気の立つ茶碗を慎之助の前に置いた。彼女の脳裏に、昨夜の記憶の断片が蘇る。薄暗い竹林の道、そして古びた門構え。あれは本当に夢だったのだろうか。
「私、心当たりがあるかもしれません」
慎之助が茶を飲む手を止めて、千鶴を見つめた。
「どういうことだ」
千鶴は躊躇いながらも、昨夜の体験を話した。自分でも信じ難い記憶を言葉にするのは困難だったが、慎之助は真剣な表情で聞いてくれた。
「なるほど。心魂草の影響かもしれないな。だが、その記憶が正確なものだとすれば、屋敷の場所が分かる可能性がある」
「でも、どうやって確かめるの?」
慎之助は茶碗を置き、立ち上がった。
「今日は同心仲間と別の調査がある。明日、一緒に郊外を探してみよう」
千鶴は頷いたが、心の奥で何かが引っかかっていた。お雪の身に何かが起こる前に、一刻も早く真相を突き止めなければならない。そんな焦燥感が、彼女の胸を締め付けていた。
慎之助が去った後、千鶴は一人薬草の整理をしながら考え込んでいた。昨夜の記憶は断片的だったが、竹林への道筋はなぜか鮮明に覚えている。街道を東に向かい、古い地蔵の前で左に折れる小道——。
「待てません」
千鶴は呟くと、薬草を包んだ小さな袋を腰に結びつけた。もし危険な目に遭ったとき、せめて薬草の知識で身を守ることができるかもしれない。
昼下がりの街道は、行商人や旅人で賑わっていた。千鶴は記憶を頼りに東へ向かう。歩きながら、父がよく言っていた言葉を思い出していた。
「薬草師の使命は、人を救うことにある。だが、知識を悪用する者もいる。お前はいつも、心を正しく保つことを忘れてはいけない」
父の教えが、今になってこれほど重く響くとは思わなかった。
やがて、記憶の中にあった古い地蔵が見えてきた。風化した石の表面に刻まれた文字は読み取れないが、確かにあの夜見た地蔵に違いない。千鶴は左に折れる小道へ足を向けた。
竹林の中は、昼間でも薄暗く、風が通るたびに竹の葉が不気味にざわめいた。道は次第に細くなり、人の気配も途絶える。千鶴の心臓は早鐘を打っていたが、足を止めることはできなかった。
しばらく歩くと、竹林が途切れて開けた場所に出た。そこに、記憶の中にあった通りの古い屋敷が佇んでいた。
屋敷は想像していたよりも大きく、黒ずんだ板塀に囲まれている。昼間だというのに、どの窓にも灯りが見えず、人の気配を感じさせない。だが、門の前には新しい草履の跡がいくつも残っていた。
千鶴は屋敷の周囲を慎重に歩いて回った。裏手に回ると、板塀の一部が朽ちて隙間ができている箇所を見つけた。身を小さくして覗き込むと、荒れた庭の向こうに母屋が見える。
「誰かいるのか」
突然背後から声をかけられ、千鶴は飛び上がった。振り返ると、粗末な着物を着た中年の男が立っている。顔は日焼けして皺だらけだったが、目は鋭く光っていた。
「あ、あの——道に迷ってしまって」
千鶴は慌てて答えたが、男の表情は疑わしそうなままだった。
「この辺りに迷い込む道なんぞない。お嬢さん、何の用でここに来た」
男の声には威圧感があり、千鶴は後ずさりした。しかし、男は一歩ずつ近づいてくる。
「本当に道に迷っただけなのです。すぐに戻りますから——」
「待て」
男が手を伸ばそうとしたとき、千鶴は咄嗟に腰の薬草袋から粉末を掴み、男の顔に投げつけた。それは眠り草の粉で、吸い込むと意識が朦朧とする作用がある。
男は目を押さえてよろめいた。千鶴はその隙を突いて竹林の中へ駆け出した。背後から男の怒声が響いたが、振り返ることなく走り続けた。
竹林を抜け、街道に出るまで走り通した千鶴は、息を切らしながら立ち止まった。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が頬を伝う。
しかし、恐怖と同時に確信も得ていた。あの屋敷こそ、鏡月斎が秘密の治療を行っている場所に違いない。そして、今夜お雪がそこに連れて行かれる。
「急いで慎之助に知らせなければ」
千鶴は足早に街へ向かった。しかし、歩きながら不安が募る。あの男は千鶴の顔を見ている。もし鏡月斎に報告されたら——。
夕闇が迫る中、千鶴の影だけが街道に長く伸びていた。遠くから聞こえる鐘の音が、迫りくる夜の訪れを告げている。お雪の身に起こる出来事を思うと、千鶴の足は自然と早まった。
だが、彼女はまだ知らなかった。あの男が既に屋敷に戻り、鏡月斎に報告を済ませていることを。そして、千鶴の存在が敵に知れた今、彼女自身も標的になったということを——。