昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、千鶴にはもはや判然としなかった。朝の光に照らされた書斎を見回しても、香炉の痕跡は見当たらない。ただ、かすかに残る甘い香りだけが、あの恐ろしい体験を物語っていた。
着物の袖を直しながら玄関先に出ると、慎之助が待っていた。いつもの穏やかな表情とは違い、眉間に深い皺を刻んでいる。
「千鶴、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「ええ、少し寝不足なだけです」
嘘をついている自分が情けなかった。だが、昨夜の幻覚めいた体験を話したところで、慎之助を心配させるだけだろう。
「実は、気になる話を聞いてきたんだ」慎之助は声を潜めた。「鏡月斎という医師のことを知っているか?」
千鶴は首を振った。その名前に聞き覚えはない。
「最近、下町で評判になっている医師らしい。どんな奇病でも治してしまうと言われていてな」
「それは結構なことではありませんか」
「ところが、おかしなことがあるんだ」慎之助の表情がさらに険しくなった。「その鏡月斎の治療を受けた患者が、相次いで姿を消している」
千鶴の背筋に冷たいものが走った。心魂草の件といい、今度の話といい、どこか繋がりがあるような気がしてならない。
「詳しく聞かせてください」
慎之助は辺りを見回してから、千鶴の耳元に口を寄せた。
「昨日、柳町の米屋の主人から相談を受けた。息子が長患いをしていたのだが、鏡月斎の治療で見事に回復したそうだ。ところが、その翌日から息子の様子がおかしくなった。ぼんやりと宙を見つめることが多くなり、時折、誰もいないのに誰かと会話をするようになったという」
お雪の症状と酷似していた。千鶴は唇を噛んだ。
「そして三日前、その息子が忽然と姿を消した。部屋には何の痕跡も残されていない。まるで最初からそこにいなかったかのように」
「他にも同じような事例が?」
「調べてみると、この一月の間に五人も同じような失踪が起きている。いずれも鏡月斎の治療を受けた者たちだ」
千鶴は胸の奥で何かが軋むのを感じた。偶然にしては出来すぎている。
「その鏡月斎という医師に会えますか?」
「それが問題なんだ」慎之助は困ったような顔をした。「居所がはっきりしない。患者は皆、夜中に呼び出されて、目隠しをされて連れて行かれるらしい。治療が終わると、また同じように送り返される」
「まるで秘密組織のようですね」
千鶴の言葉に、慎之助は深くうなずいた。
「俺もそう思う。だが、治療を受ける者は後を絶たない。藁にもすがる思いの病人や家族にとって、鏡月斎は最後の希望なんだ」
二人は歩きながら話を続けた。朝の下町は活気に満ちているが、千鶴の心は重い雲に覆われていた。行き交う人々の中にも、鏡月斎の治療を求める者がいるのかもしれない。そして、その中から新たな犠牲者が生まれるのかもしれない。
「お雪さんのことも、この鏡月斎と関係があるのでしょうか」
「可能性は高い」慎之助の声には確信があった。「症状があまりにも似通っている」
角を曲がったところで、千鶴は足を止めた。薬草問屋の看板が目に入ったのだ。
「ちょっと、あそこで聞いてみませんか?薬草を扱う商人なら、何か知っているかもしれません」
店に入ると、白髪の老人が薬草を選別していた。千鶴が声をかけると、老人は顔を上げた。
「いらっしゃい。今日は何の薬草をお求めで?」
「実は、鏡月斎という医師についてお聞きしたいのですが」
老人の表情が一瞬強張った。それから辺りを見回して、声を潜めた。
「あの方のことを聞いてどうされる?」
「知り合いが治療を受けようかと考えていまして」慎之助が嘘をついた。
「やめておいた方がいい」老人は首を振った。「確かに腕は立つ。どんな病気でも治してしまう。だが、代償が大きすぎる」
「代償とは?」
「魂を持っていかれる」老人の声は震えていた。「治療を受けた者は皆、最初は元気になる。だが、やがて心を失い、最後は消えてしまう。まるで最初からこの世にいなかったかのように」
千鶴は老人の言葉に戦慄した。慎之助から聞いた話と完全に一致している。
「その鏡月斎は、どのような薬草を使うのでしょうか?」
老人は千鶴を見詰めた。その目には深い憂いが宿っていた。
「心魂草を主とした秘薬だと聞いている。だが、普通の心魂草ではない。何か特別な方法で処理された、邪悪な力を持つ薬草だ」
千鶴の心臓が激しく鼓動した。やはり心魂草が関わっている。
「最近、心魂草に似た薬草が買い占められているという話を聞いたのですが」
「ああ、それも鏡月斎の仕業だろう」老人は深いため息をついた。「あの方は何か大きなことを企んでいる。この街に不穏な影が落ちているのを感じないか?」
確かに、千鶴も同じことを感じていた。普段と変わらぬ街の風景の裏側で、何か恐ろしいことが進行している気配があった。
店を出ると、慎之助が振り返った。
「やはり鏡月斎が黒幕らしいな。だが、どうやって接触すればいいものか」
「患者になりすますという手もありますが」千鶴は考えながら言った。「あまりにも危険すぎます」
「そうだな。相手の正体も能力も分からない以上、迂闊に近づくのは得策ではない」
歩いていると、向こうから見覚えのある顔がやってきた。お雪の働いていた茶屋の女将だった。
「あら、千鶴さん」女将は安堵の表情を浮かべた。「お雪のことで相談があります」
「お雪さんに何かあったのですか?」
「昨夜から様子がおかしいんです。ずっと『先生が呼んでいる』と繰り返していて」
千鶴と慎之助は顔を見合わせた。
「どのような先生でしょうか?」
「さあ、それが分からないんです。でも、とても怖い顔をして、今にも出て行ってしまいそうで」
千鶴は急に不安になった。鏡月斎がお雪を呼び寄せようとしているのかもしれない。
「すぐにお雪さんのもとへ案内してください」
三人は茶屋へと急いだ。お雪は奥の部屋で、虚ろな目をして座っていた。千鶴の顔を見ても、反応が薄い。
「お雪さん、私です。分かりますか?」
「あ、千鶴さん」お雪の声は力がなかった。「先生が、もう一度治療をしてくださるそうです。今度こそ、完全に治してくださると」
「その先生というのは?」
「鏡月斎先生です。とても優しい方で、私の病気を治してくださいました」
千鶴は愕然とした。お雪はすでに鏡月斎の治療を受けていたのだ。
「いつ治療を受けたのですか?」
「一週間ほど前でしょうか。夜中に迎えが来て、不思議な場所に連れて行かれました」お雪の目が遠くを見つめた。「そこは鏡がたくさんある部屋で、先生がとても美しい薬を飲ませてくださいました」
鏡の部屋。千鶴は背筋が凍る思いがした。
「お雪さん、その治療は受けてはいけません」千鶴は必死に説得した。「危険です」
だが、お雪は首を横に振った。
「先生は私を救ってくださる方です。今夜、また迎えが来ます」
その時、部屋の隅で何かが光った。千鶴が見ると、小さな鏡が置かれている。鏡の表面に、一瞬、男性の顔が映ったような気がした。
冷酷で、知的で、そして底知れぬ邪悪さを湛えた顔。
それは間違いなく、鏡月斎だった。