朝の陽射しが格子戸から差し込み、薬草を煎じる湯気に淡い光の筋を描いていた。千鶴は静かに手を動かしながら、心の奥深くで何かが整理されていくのを感じていた。
「今日も調子はいかがですか」
お雪が小さく微笑みながら尋ねた。彼女の瞳には、以前のような虚ろさはもうなかった。心魂草の正しい調合による治療が功を奏し、現実と幻覚の境界に迷うことも少なくなっている。
「おかげさまで、とても良いですよ」
千鶴は振り返って答えた。その時、ふと自分の中で何かが変わったことに気づく。これまで漠然としていた記憶の断片が、まるで散らばっていた薬草を種類別に整理するように、一つ一つ適切な場所に収まっていくような感覚だった。
鏡月斎との対峙で混乱した記憶、心魂草の影響で曖昧になっていた現実認識、そして失われたと思っていた幼い頃の記憶の欠片たち。それらが今、穏やかな朝の光の中で静かに整列していく。
「千鶴」
慎之助の声が聞こえた。彼は夜回りを終えて戻ってきたのだろう、少し疲れた様子で店の戸を開けた。
「お疲れ様でした」
「ああ、ただいま」
彼の笑顔を見ていると、千鶴の胸に温かなものが広がった。この人との記憶は確かなもので、偽りではない。幼い頃から共に過ごした時間、互いを想い合う気持ち、そして困難を共に乗り越えてきた絆。それらはどんな薬草の影響も受けることのない、真実の記憶なのだと確信できた。
「昨夜、また一人、夢見草の影響と思われる若者を見つけた」
慎之助の表情が引き締まった。
「どのような様子でしたか」
「ひどく憔悴していて、現実感を失っているようだった。話しかけても虚ろな表情で、まるで魂が抜けたようで……」
千鶴は手を止めて振り返る。お雪も心配そうに聞き入っていた。
「それで、その方はどちらに」
「同心仲間と相談して、一時的に番屋で保護している。だが、どう対処すべきか……」
慎之助の困惑した表情を見て、千鶴は静かに立ち上がった。心の中で何かが確実に定まっていくのを感じる。
「私が診させていただきます」
「千鶴……」
「大丈夫です。もう迷いはありません」
千鶴は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。確かに、すべての記憶が戻ったわけではない。鏡月斎の実験の影響で、永遠に失われてしまった記憶もあるだろう。だが、それでも構わないのだと思えるようになった。
人の記憶とは、薬草のようなものかもしれない。すべてが必要なわけではなく、時には毒となるものを取り除く必要もある。大切なのは、残った記憶をどう活かすかということなのだ。
「お雪さん」
千鶴は振り返った。
「はい」
「あなたはもう、幻と現実を区別できるようになりましたね」
「はい、おかげさまで」
「それは、失われた記憶があったとしても、今この瞬間の現実を大切にできるようになったからだと思うのです」
お雪は少し考えてから、深くうなずいた。
「千鶴さんの言う通りです。過去のすべてを覚えていなくても、今、大切な人たちと共にいることの意味は分かります」
その言葉を聞いて、千鶴の心に確信が生まれた。記憶を整理するということは、すべてを思い出すことではない。真実と虚偽を見分け、本当に大切なものを見極めることなのだ。
「慎之助さん」
「何だ」
「私の記憶には、まだ曖昧な部分や失われた部分があります。でも、それでも確かに言えることがあります」
千鶴は慎之助の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたと過ごした時間、お雪さんとの出会い、父から受け継いだ薬草の知識、そして人を救いたいという想い。これらはすべて真実です。どんな幻覚も薬草も、この事実を変えることはできません」
慎之助の表情が和らいだ。
「千鶴……」
「ですから、新しい事件にも立ち向かえます。完璧な記憶がなくても、確かな想いがあれば大丈夫です」
千鶴は薬草を入れた籠を手に取った。心の整理がついたことで、かえって前に進む力が湧いてきた。
「夢見草の被害者の方を診せてください。きっと何か手がかりが見つかるはずです」
「分かった。だが、無理は禁物だ」
「はい、分かっています」
三人で店を出ようとした時、お雪が小さく呟いた。
「千鶴さん、私も一緒に行ってもよろしいでしょうか。同じように苦しんでいる方の力になりたいのです」
千鶴は微笑んで答えた。
「もちろんです。あなたの体験は、きっと大きな力になります」
朝の街は活気に満ちていたが、その賑やかさの陰で、また新たな苦しみを抱えた人々がいる。千鶴は整理された記憶と確かな絆を胸に、歩みを進めた。
番屋に向かう道すがら、慎之助が静かに言った。
「最近、夢見草を売っている場所の手がかりを掴んだ」
「本当ですか」
「ああ。どうやら、以前鏡月斎が使っていた隠れ屋敷の近くらしい」
千鶴の胸に、不安とともに新たな決意が湧き上がった。記憶を整理し、真実を見極める力を得た今なら、どんな謎にも立ち向かえるはずだ。
だが同時に、鏡月斎の影がまだ街に残っているのかもしれないという予感が、千鶴の心に小さな影を落としていた。