春の陽だまりが薬草問屋の軒先を優しく照らしていた。千鶴は父の遺した薬研で、慎重に心魂草の粉末を調合している。あの恐ろしい事件から三ヶ月が過ぎ、街にも穏やかな日常が戻りつつあった。
「千鶴、具合はどうだい?」
慎之助の声が背後から聞こえる。振り返ると、同心の羽織を脱いだ彼が心配そうな表情で立っていた。
「おかげさまで、順調よ。心魂草の効能を正しく使えば、これまで治せなかった心の病にも光明が見えてくる」
千鶴の手元には、鏡月斎が悪用していた心魂草とは全く異なる、薄い桃色の粉末があった。父から教わった古い文献を読み返し、何度も試行錯誤を重ねて辿り着いた調合法である。
「お雪さんの容体は?」
「昨日診せてもらったけれど、記憶の混濁がだいぶ治まってきているわ。正しい分量で服用を続ければ、きっと元の生活に戻れる」
千鶴の声には、確かな手応えがあった。鏡月斎の実験によって現実と幻覚の境界を失ったお雪は、千鶴の新しい治療法により、少しずつ本来の自分を取り戻しつつある。
「それは良かった。君の父上も、きっと喜んでおられるだろう」
慎之助の言葉に、千鶴は微笑んだ。父が残してくれた知識と、この三ヶ月間で積み重ねた経験が、ようやく人を救う力として結実したのだ。
ふと、薬研の音が止まった。千鶴は調合を終えると、小さな紙包みに薬草を分けて包んでいく。その手つきは以前よりもずっと確かで、迷いがない。
「慎之助、あなたはこれからも同心を続けるのね」
「ああ。ただ、以前とは少し考え方が変わった」
慎之助は窓の外を見つめながら答えた。街行く人々の表情は、事件前よりも明るく見える。真実が明かされたことで、人々の心に宿っていた不安の霧が晴れたのだろう。
「どのように?」
「正義とは、ただ悪を裁くことではないのだと分かった。君のように、人を癒し、救うことも立派な正義の形だ。私は法の力で街の秩序を守り、君は薬草の力で人の心を癒す。二人でひとつの大きな正義を成すのかもしれない」
その言葉に、千鶴の頬がほんのりと染まった。事件を通じて、二人の絆は確実に深まっている。しかし、それは恋愛感情だけではない。互いの使命を理解し、支え合う同志としての絆でもあった。
「千鶴さん、いらっしゃいますか?」
表から声がかかった。千鶴が返事をすると、中年の女性が慌てた様子で入ってきた。
「息子の具合が思わしくないのです。気が沈んで、何も手につかないと申しまして」
「分かりました。すぐにお伺いします」
千鶴は手早く薬箱を準備した。心魂草の新しい調合薬も忘れずに入れる。慎之助も一緒に立ち上がった。
「私も同行しよう。最近、似たような症状の相談が奉行所にも寄せられている。何か関連があるかもしれない」
二人は女性の後について街へ出た。陽射しは暖かく、桜の蕾が膨らみ始めている。新しい季節の訪れを感じさせる午後だった。
患者の家は長屋の一角にあった。息子は二十歳ほどの青年で、確かに生気を失ったような表情をしている。千鶴は丁寧に問診を行い、脈を診た。
「いつ頃からこのような状態に?」
「半月ほど前からです。それまでは元気な子だったのですが」
慎之助が口を挟んだ。
「他にも同じような症状の若者が何人かいる。皆、時期がほぼ同じだ」
千鶴は眉をひそめた。単なる偶然とは思えない。何らかの原因があるはずだ。
「少し調べてみる必要がありますね。今日は応急的な薬をお渡ししますが、根本的な原因を突き止めないと」
薬箱から心魂草の調合薬を取り出し、服用方法を説明した。母親は安堵の表情を浮かべたが、千鶴の心には新たな懸念が芽生えていた。
帰り道、慎之助が口を開いた。
「また新しい事件の始まりかもしれない」
「ええ。でも今度は私たちがいる。きっと早期に解決できるわ」
千鶴の声には、以前にはなかった力強さがあった。鏡月斎との戦いを通じて、彼女は真の薬草師として成長していた。
夕暮れが近づく頃、二人は薬草問屋に戻った。千鶴は父の残した文献を改めて読み返し、慎之助は奉行所からの報告書に目を通した。
「千鶴、気になることがある」
「何?」
「最近、街の若者の間で新しい薬草が流行っているという噂がある。『夢見草』と呼ばれているらしい」
千鶴の手が止まった。夢見草という名前には聞き覚えがない。しかし、その響きには不吉なものを感じた。
「詳しく調べましょう。もしかすると、鏡月斎の残党が新たな実験を始めたのかもしれない」
「そうだな。明日から本格的に調査を開始しよう」
二人は顔を見合わせた。平穏な日々は束の間だったが、それでも構わない。人を救うという使命がある限り、どんな困難にも立ち向かっていく覚悟があった。
その夜、千鶴は久しぶりに父の夢を見た。父は穏やかな笑顔で、千鶴の成長を喜んでいるようだった。そして、最後にこう言った。
「真実を求める心を忘れるな。それがお前の最大の武器だ」
翌朝、千鶴は清々しい気持ちで目覚めた。新たな事件が待ち受けているかもしれないが、恐れはない。慎之助という頼もしい相棒がいる。そして何より、自分自身が父から受け継いだ知識と、自らの経験によって真の薬草師となったのだから。
薬草問屋の軒先に、今日も暖かな陽射しが差し込んでいた。