鏡月斎の狂気に満ちた瞳を見つめながら、千鶴は一歩後ずさった。慎之助の手が彼女の肩を支える。最上階の広間は異様な静寂に包まれており、壁一面に張り巡らされた鏡が三人の姿を無数に映し出していた。

「ようやく来たな、白川千鶴」

 鏡月斎の声は驚くほど穏やかだった。狂気の医師というよりも、疲れ果てた一人の男のように見える。

「貴方が父を殺したのですね」

 千鶴の声は震えていた。憎しみと悲しみが入り混じった複雑な感情が胸の奥で渦巻いている。

「殺した?」鏡月斎は首を振った。「違うな。お前の父は自ら命を絶ったのだ。私の研究に協力することを拒み、心魂草の真の力を封印するために」

 その瞬間、部屋の中央に据えられた大きな鏡が光を放った。鏡面に映し出されたのは、見慣れた薬草店の奥座敷。そこには千鶴の父・白川道玄の姿があった。

「父上!」

 千鶴は思わず鏡に向かって駆け寄ろうとしたが、慎之助が彼女の腕を掴んで止めた。

「千鶴、落ち着け。それは幻影だ」

「いや、違う」鏡月斎が静かに言った。「それは確かにお前の父の魂だ。心魂草の力により、死者の魂を一時的にこの世に呼び戻すことができる。ただし、その代償は計り知れない」

 鏡の中の道玄は振り返り、千鶴を見つめた。その目には深い慈愛の光が宿っている。

「千鶴、よくここまで来てくれた」

 父の声が鏡越しに響く。千鶴の目に涙があふれた。

「父上、申し訳ございません。私の力不足で、多くの人が犠牲になってしまいました」

「謝ることはない。お前はよくやった」道玄の表情は穏やかだった。「だが、まだ終わりではない。真実を伝えなければならない」

 千鶴は膝をついて鏡の前に座り込んだ。慎之助も彼女の隣に身を寄せる。

「心魂草の研究を始めたのは、実は私だった」道玄の告白に、千鶴は息を呑んだ。「最愛の妻、お前の母を救いたい一心で、禁断の薬草に手を出してしまった」

「母上を?」

「そうだ。お前の母は産後の肥立ちが悪く、どんな薬も効かなかった。私は絶望し、古い文献で見つけた心魂草の研究に没頭した。だが、結果として母を救うことはできず、それどころか多くの人を危険に晒すことになってしまった」

 鏡月斎が口を開いた。

「道玄殿は研究の危険性に気づき、すべての資料を破棄しようとした。しかし私は彼の研究成果に目を付け、それを奪おうとした」

「父上は組織に立ち向かったのですね」

「そうだ」道玄は頷いた。「しかし、私一人の力では限界があった。最後の手段として、心魂草の正しい使用法を記した秘伝書を隠し、自らの命と引き換えに研究の一部を封印した」

 千鶴の胸が締め付けられる。父は自分のせいで始まった災いを止めるために、命を賭けて戦っていたのだ。

「秘伝書はどこに?」

「お前が毎日手にしていた場所にある」道玄が微笑んだ。「薬草の調合に使っていた乳鉢の底に、薬草で書いた文字が隠されている。特殊な煎じ薬をかけることで文字が浮かび上がる仕組みだ」

 千鶴は目を見開いた。あの乳鉢に秘密が隠されていたとは。

「心魂草の正しい使い方とは、死者を蘇らせることではない」道玄の声に力が宿る。「それは生者の心の傷を癒し、魂の迷いを晴らす薬草なのだ。死者との対話も、生者が心の整理をつけるための手段に過ぎない」

「つまり、お雪さんたちを救うことができるということですね」

「そうだ。ただし、使用には細心の注意が必要だ。使う者の心が澄んでいなければ、逆に魂を闇に引きずり込んでしまう」

 鏡月斎が苦々しく笑った。

「私がまさにその例だ。桜子を救いたい一心で心魂草を使ったが、執着に囚われた私の心では、彼女の魂を苦しめるだけだった」

 道玄が鏡月斎を見つめる。

「鏡月斎よ、お前も被害者の一人だ。桜子殿の死に対する悲しみと罪悪感が、お前を狂気に駆り立てた。だが、まだ遅くはない」

「遅くない、だと?」鏡月斎の目に涙が滲む。「私は何人もの無辜の人々を実験台にした。この罪は消えない」

「罪を消すことはできない」道玄の声は優しかった。「だが、これ以上罪を重ねる必要もない。今からでも、お前の医師としての本来の姿を取り戻すことができる」

 千鶴は立ち上がり、鏡月斎に歩み寄った。

「鏡月斎様、私たちと一緒にお雪さんたちを救ってください。貴方の医術があれば、きっと」

「私などに、そんな資格があるのか」

「資格など関係ありません」千鶴の声は確信に満ちていた。「大切なのは、今この瞬間から正しい道を歩むことです」

 鏡月斎は長い間沈黙していたが、やがて深く息を吐いた。

「分かった。せめて最後に、医師らしいことをしよう」

 道玄が満足そうに頷く。

「千鶴、お前は私の誇りだ。立派に成長した」

「父上、もう少しお話を」

「もうじき夜が明ける。心魂草の効果が切れれば、私の魂も元の世界に戻らなければならない」道玄の姿が薄くなり始めていた。「だが、お前の心の中に私はいつまでも生き続ける。それこそが、本当の意味での魂の継承なのだ」

 鏡が徐々に光を失い、道玄の姿が消えていく。

「父上!」

「千鶴、慎之助を大切にしろ。そして、薬草師としての誇りを忘れるな」

 最後の言葉を残し、道玄の魂は光の中に消えた。千鶴は鏡に手を当て、静かに涙を流した。慎之助が彼女の肩を抱く。

「行こう、千鶴。お雪さんたちが待っている」

「はい」千鶴は涙を拭い、決意を新たにした。「父の想いを無駄にはしません」

 三人は階下へ向かった。しかし、迷宮の構造が変化し始めていることに気づく。まるで建物全体が崩壊への道筋を辿っているようだった。

「急がなければ」鏡月斎が焦りの色を見せる。「この施設は心魂草の力で維持されていた。その力が弱まれば」

 その時、建物全体が大きく揺れた。天井から石くずが降り注ぐ。

「慎之助さん、お雪さんたちの元へ急ぎましょう」

 千鶴の声に力が宿る。父との再会で得た真実と覚悟を胸に、彼女は最後の戦いに挑む準備を整えた。しかし、崩壊する迷宮の中で、果たして全員を救い出すことができるのだろうか。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

38

父との再会

霧島 彩乃

2026-04-27

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第38話 父との再会 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版