最上階へ向かう階段を上がる途中、千鶴は背後から聞こえてくる不気味な音に足を止めた。それは人の呻き声のようでもあり、風が建物の隙間を通り抜ける音のようでもあった。慎之助も同じものを感じ取ったのか、警戒するように刀の柄に手をかけている。

「あの音は何でしょう」

「分からない。だが、嫌な予感がする」

 お雪を背負った慎之助の歩みは重い。少女は意識を取り戻してはいるものの、まだ現実と幻覚の境界を彷徨っているようで、時折うわごとのように何かを呟いている。

 階段の途中に設けられた踊り場に差し掛かった時、千鶴は壁に埋め込まれた鏡に気づいた。これまで見てきたものとは異なり、その鏡は曇りガラスのように白く濁っている。

「慎之助さん、あの鏡を」

 千鶴が指差した瞬間、鏡の表面に映像が浮かび上がった。それは江戸の街並みだったが、今とは少し違って見える。建物の配置や人々の装いから、十数年前の光景であることが分かった。

 鏡の中で、一人の若い医師が患者の診察をしている。その男は今よりもずっと若く、目には希望の光が宿っていた。千鶴は息を呑んだ。それは紛れもなく、若き日の鏡月斎だった。

「まさか、あれが」

「鏡月斎の過去か」

 映像の中の鏡月斎は、貧しい人々のために無償で治療を行っていた。病に苦しむ者たちに薬を分け与え、時には自分の食事を削ってでも患者を救おうとしている。その姿は、千鶴が目指す薬草師の理想そのものだった。

 場面が変わり、鏡月斎が一人の美しい女性と語らっている様子が映し出された。女性は薄紅色の着物をまとい、桜の花のように可憐な笑顔を浮かべている。二人の間には深い愛情が感じられ、見ているだけで胸が温かくなるような光景だった。

「あの方は」

 千鶴の問いに答えるように、映像が続いた。女性は桜子という名前のようで、鏡月斎の診療を手伝っていた。二人は互いを深く愛し合い、結ばれることを誓っていた。

 しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。

 桜子が原因不明の病に倒れる場面が映し出される。最初は軽い咳程度だったものが、日を追うごとに悪化していく。鏡月斎は必死になって治療法を探したが、どの薬も効果を示さない。

 千鶴は鏡を見つめながら、胸が締め付けられるような思いを感じていた。愛する人を救えない医師の苦悩が、まるで自分のことのように痛々しく伝わってくる。

「あの時の私と同じですね」

 お雪が小さくつぶやいた。少女の意識が戻っているようだった。

「お雪、大丈夫なの?」

「はい。でも、あの先生の気持ちが分かります。大切な人を失う恐怖は、人の心を狂わせてしまうんです」

 映像は続いている。鏡月斎は古い文献を漁り、禁断とされる薬草の研究に手を染め始めた。心魂草の存在を知ったのもこの頃だったのだろう。人の心を操るその薬草に、最愛の人を救う可能性を見出したのかもしれない。

 だが、研究は間に合わなかった。

 桜子は鏡月斎の腕の中で静かに息を引き取った。その瞬間の鏡月斎の表情は、千鶴の記憶に深く刻み込まれた。絶望、怒り、そして狂気に近い何かが、彼の目に宿っていた。

「彼も最初は、人を救いたい一心だったのね」

 千鶴の声には同情が込められていた。鏡月斎への憎しみが、複雑な感情へと変化していく。

 映像はさらに続き、桜子を失った鏡月斎がどのように変貌していったかを示していた。彼は死者を蘇らせることへの執着を捨てられず、心魂草の研究に没頭していく。やがて、生きている人間を使った実験に手を染めるようになった。

 最初は自分自身を実験台にしていたが、効果が薄いと分かると他人を巻き込むようになった。そして現在に至るまで、数え切れない人々を犠牲にしてきたのだ。

「愛する人を救えなかった悲しみが、彼をここまで変えてしまったのですね」

 慎之助の言葉に、千鶴は深く頷いた。

「でも、それは理由にはなりません。どんなに深い悲しみがあったとしても、他人を犠牲にしていい理由にはならない」

 鏡の映像が薄れていく。同時に、階上から鏡月斎の声が聞こえてきた。

「よくぞここまで辿り着いた。私の過去を見たのだろう?」

 三人は顔を見合わせた。鏡月斎は最初から、自分たちがここに来ることを予期していたのかもしれない。

「行きましょう。もう逃げる理由はありません」

 千鶴の決意に、慎之助とお雪も応じた。残りの階段を上がり、ついに最上階の扉の前に立つ。扉は既に開かれており、薄暗い部屋の奥で鏡月斎の影がゆらめいている。

「ようこそ、私の聖域へ」

 鏡月斎の声は、これまでの冷酷さとは違って、どこか寂しげな響きを含んでいた。まるで長い間、誰かに自分の過去を語りたがっていたかのように。

 千鶴たちが部屋に足を踏み入れると、そこには無数の鏡が配置されていた。しかし、それらの鏡には桜子の姿ばかりが映し出されている。生前の美しい姿、病に倒れた姿、そして死の瞬間まで。

「私はただ、彼女に会いたかっただけなのだ」

 鏡月斎が振り返る。その顔には、狂気と悲しみが混在していた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

37

鏡月斎の過去

霧島 彩乃

2026-04-26

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第37話 鏡月斎の過去 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版