俊介が残した解毒剤を懐に忍ばせ、千鶴は慎之助と共に鏡月斎のアジトへと向かった。夜の帳が降りた江戸の街は、いつもの賑やかさを失い、不気味な静寂に包まれている。街角に立つ人々の瞳には、どこか虚ろな光が宿っているように見えた。
「千鶴、本当に大丈夫なのか」
慎之助の声に振り返ると、彼の顔には深い心配の色が浮かんでいた。
「ええ。お雪さんのためにも、父上のためにも、必ずやり遂げます」
千鶴の声には迷いがなかった。俊介との再会で得た情報、そして父の研究が悪用されているという事実が、彼女の心を鋼のように硬くしていた。
アジトは市中から離れた古い屋敷だった。表向きは廃屋に見えるが、地下に巨大な施設が広がっているのだろう。潜入に成功した二人は、薄暗い廊下を慎重に進んでいく。
やがて、不自然に大きな扉の前に辿り着いた。扉には無数の鏡片が埋め込まれ、蝋燭の炎がちらちらと乱反射している。
「ここが最深部のようですね」
千鶴が呟いた時、扉がひとりでに開いた。中から漏れ出してきたのは、甘美で危険な香りだった。心魂草の香りに違いない。
「千鶴殿、よくぞここまで」
鏡月斎の声が響いた。しかし、その姿は見えない。声だけが空間に漂っている。
「鏡月斎、姿を現せ!」
慎之助が刀の柄に手をかけたその時、二人の足元の床が崩れ落ちた。
気がつくと、千鶴は一人で立っていた。周囲は無数の鏡に囲まれた空間で、天井も床も壁も、すべてが鏡でできている。そこに映る自分の姿は、しかし、一つとして同じものがない。
ある鏡には幼い頃の自分が映り、父と一緒に薬草を摘んでいる。別の鏡には、病に倒れた母の看病をする自分がいる。また別の鏡には、今まで見たことのない老いた自分の姿があった。
「これが最後の迷宮か」
千鶴は呟いた。俊介の話では、鏡月斎は心魂草の究極の使い方として、人の魂そのものを分離させる技術を完成させたという。この空間は、まさにその実験場なのだろう。
「慎之助さん」
声を出してみるが、返事はない。彼がどこにいるのか、それとも別の空間に飛ばされたのか、わからない。
歩を進めると、鏡の中の映像が動き始めた。幼い自分が振り返り、口を開く。
「お父様の跡を継いで、本当に良かったの?」
ぞっとするような幼い声だった。
「女の身で、こんな危険なことばかりして」
今度は母の看病をしている自分が語りかけてくる。
「お母様を救えなかった貴女に、他の人を救う資格があるの?」
千鶴の心に、深く突き刺さる言葉だった。確かに母を救えなかった。自分の知識や技術に限界があることも痛いほど知っている。
「違う」
千鶴は首を振った。
「母上を救えなかったのは事実です。でも、だからこそ、他の人を救いたいと思うのです」
すると、老いた自分の姿をした鏡が笑った。
「綺麗事ね。結局は自分の罪悪感を誤魔化したいだけでしょう?」
「そうかもしれません」
千鶴は正直に答えた。
「でも、それでも構わない。私は私のやり方で、人を救い続けます」
鏡の中の自分たちがざわめき始めた。千鶴の答えが予想外だったのか、映像が揺らぎ始める。
その時、新しい鏡が現れた。そこには慎之助と寄り添う自分の姿があった。穏やかで幸せそうな表情をしている。
「こんな危険な道を歩まなければ、普通の女性として幸せになれるのに」
鏡の中の自分が語りかける。
「慎之助さんと結ばれ、子を産み、静かに暮らす。それが女性の幸せというものでは?」
千鶴の心が一瞬揺らいだ。確かに魅力的な未来だった。しかし、すぐに首を振る。
「それも一つの幸せでしょう。でも、私には私の道があります」
懐から俊介にもらった解毒剤を取り出した。
「私は白川千鶴。薬草師として生き、薬草師として死ぬ。それが私の選んだ道です」
解毒剤を口に含むと、心魂草の甘い香りが薄れていく。すると、鏡に映っていた様々な自分の姿が次々と消えていった。最後に残ったのは、今の自分を映す一枚の鏡だけ。
「よくやったな、千鶴」
鏡の向こうから父の声が聞こえた。
「お父様?」
「私の研究を正しく理解し、正しく使おうとしてくれている。誇らしい娘だ」
父の姿が鏡に浮かんだ。優しい笑顔を浮かべている。
「でも、これで終わりではない。鏡月斎はまだ生きている。そして、お前の愛する人たちが危険にさらされている」
「慎之助さんは?」
「別の迷宮に囚われている。急げ、千鶴。時間がない」
鏡が砕け散り、千鶴は現実の世界に戻った。そこは薄暗い地下の一室で、床には複雑な魔法陣のような模様が描かれている。部屋の隅では、お雪が鎖に繋がれて倒れていた。
「お雪さん」
駆け寄ると、彼女はかろうじて息をしているが、意識がない。瞳孔が異常に開いており、明らかに薬物の影響を受けている。
「心魂草の過剰摂取ね」
解毒剤を少量、お雪の口に含ませる。すると、彼女の呼吸が少し楽になった。
「千鶴殿」
振り返ると、慎之助が壁にもたれかかって座っていた。額から血を流している。
「慎之助さん、無事でしたか」
「ああ、なんとか迷宮から抜け出せた。君のおかげだ」
「私の?」
「迷宮の中で、君の声が聞こえたんだ。『私には私の道がある』という声が。それで、自分を見失わずに済んだ」
千鶴の頬が僅かに赤らんだ。しかし、すぐに表情を引き締める。
「まだ終わっていません。鏡月斎は?」
「上階にいるはずだ。最後の儀式を行っているようだった」
その時、建物全体が振動した。不気味な笑い声が響く。
「さあ、始まるぞ。江戸の人々すべてが、我が意のままになる時が」
鏡月斎の声だった。
千鶴は立ち上がった。懐の解毒剤は残り僅か。しかし、もう迷いはなかった。
「行きましょう、慎之助さん。お雪さんを救い、江戸の人々を救い、父の研究を取り戻すのです」
慎之助も立ち上がり、刀を抜いた。
「承知した。共に行こう、千鶴」
二人は最上階へ向かって駆け出した。建物の振動は激しくなり、遠くから太鼓の音のような響きが聞こえてくる。鏡月斎の最後の実験が、ついに始まろうとしていた。