隠れ屋敷の奥の間で、油の煙る行灯の明かりが揺らめいている。千鶴は叔父・俊介の顔を見詰めながら、まだ現実感が掴めずにいた。十年もの間、死んだものと思っていた父の弟が、こうして目の前に座っている。
「千鶴、お前がこんなに立派になって...」
俊介の声は低く掠れていたが、そこに込められた愛情は紛れもなく本物だった。千鶴は膝の上で拳を握り締める。
「叔父さまは、ずっとお一人で...父の仇を討とうと」
「仇討ちなどという単純なものではない」俊介は首を振った。「最初はそうだったかもしれない。だが、組織の内部を知るうちに、もっと恐ろしいことが分かってきた。鏡月斎の野望は、この江戸の町全体を巻き込むほど巨大なのだ」
慎之助が身を乗り出す。
「どういうことです」
「心魂草を使った薬を、水道や米に混ぜて町人に摂取させる計画がある。少量ずつ、気づかれぬよう長期間にわたって」俊介の表情が険しくなった。「そうすれば、江戸の人々の心を思うままに操ることができる。将軍家にも影響を及ぼし、この国の行く末すら左右できるだろう」
千鶴は背筋に冷たいものが走るのを感じた。お雪のような被害者が、江戸中に溢れることになる。いや、お雪はまだ幸運だったのかもしれない。彼女は幻覚に苦しんでいるが、まだ自分の心を保っている。
「それを阻止するため、あなたは組織に潜入を」
「そうだ。だが時間がない」俊介は立ち上がり、窓の外を警戒するように見やった。「三日後の新月の夜、鏡月斎は計画を実行に移すつもりだ」
「三日後...」千鶴は呟いた。
その時、屋敷の外から微かに足音が聞こえてきた。慎之助が即座に刀に手をかける。
「追っ手です」俊介の声が緊迫した。「案の定、私の正体が完全に露見したようだ」
「どうします」
「ここは私が食い止める。千鶴、お前たちは裏口から逃げろ」
「叔父さまを置いてはいけません」千鶴は立ち上がった。「一緒に」
「駄目だ」俊介は千鶴の肩を掴んだ。「お前にはもっと大切な役目がある。心魂草の正しい使い方を知っているのは、この世でお前だけなのだ」
千鶴の心に、父・慶斎の教えが蘇る。薬草は人を救うためにある。害をもたらすためのものではない。
「父の研究を悪用されたままでは、父も浮かばれない」千鶴の声に決意が宿った。「私が、正さなければ」
「その通りだ」俊介は微笑んだ。「お前の中には慶斎の魂が生きている。薬草の真の力を、お前が人々に示すのだ」
足音が次第に近づいてくる。複数の人影が屋敷を取り囲んでいるのが分かった。
「千鶴様、参りましょう」慎之助が促した。
千鶴は叔父を振り返る。十年ぶりに再会したのに、もうお別れなのか。
「叔父さま」
「案ずるな。私は死にはしない。鏡月斎との決着をつけるまでは」俊介は懐から小さな包みを取り出した。「これを持って行け。父が密かに調合していた薬だ。心魂草の毒を中和する」
千鶴は包みを受け取る。手のひらに、父の温もりを感じたような気がした。
「必ず、再びお会いしましょう」
「ああ、約束する」
慎之助に連れられ、千鶴は裏口へ向かった。振り返ると、俊介が刀を抜いているのが見えた。その後ろ姿は、確かに父に似ていた。
屋敷の外に出ると、夜風が頬を撫でていく。千鶴は包みを胸に抱きしめた。父の意志、叔父の想い、そして自分の使命。すべてが一つに繋がっている。
「どちらへ向かいますか」慎之助が尋ねた。
「薬草問屋へ戻りましょう。準備をしなければ」千鶴は振り返った。「三日後、私たちが鏡月斎を止めるのです」
「しかし、相手は組織全体です。我々だけでは」
「いえ、私たちだけではありません」千鶴の目に光が宿った。「町の人々がいます。真実を知れば、きっと立ち上がってくれるはず」
二人は夜道を急いだ。月は雲に隠れ、街は静寂に包まれている。だが千鶴の心には、確かな希望が灯っていた。
薬草問屋に戻ると、千鶴は父の研究室に籠もった。叔父からもらった薬を詳しく調べ、心魂草の解毒剤の調合法を解明する必要がある。
「千鶴様、無理をなさらず」
「大丈夫です、慎之助さん」千鶴は薬研を手に取った。「これが私の使命ですから」
夜が更けていく。千鶴は父の遺した文献と格闘していた。心魂草の性質、毒性、そして解毒の原理。すべてを理解し、大量調合の方法を確立しなければならない。
明け方近く、ついに糸口を掴んだ。父の研究ノートの片隅に、小さな文字で記された一文があった。
『真の薬草師とは、草木の声を聞く者である。自然の調和に従えば、毒も薬となる』
千鶴は微笑んだ。父の言葉が、今こそ深く心に響く。
「分かりました、お父さま」千鶴は呟いた。「私が、あなたの意志を継ぎます」
窓の外で、鳥が鳴き始めていた。新しい一日の始まり。そして、決戦まであと二日。千鶴は立ち上がると、慎之助を見つめた。
「慎之助さん、お雪さんのところへ行きましょう。彼女を治すことから始めます」
「今からですか」
「はい。お雪さんが回復すれば、きっと鏡月斎の弱点が分かるはずです」千鶴は父から受け継いだ薬箱を手に取った。「それに、私は薬草師です。目の前の患者を見捨てるわけにはいきません」
慎之助は千鶴の横顔を見つめていた。そこには迷いのない、美しい決意があった。
「分かりました。お供いたします」
二人は朝靄の中を歩き始めた。千鶴の足取りは軽やかだった。ようやく、自分の進むべき道が見えたのだ。薬草の力で人を救う。それが父から受け継いだ、何よりも大切な使命なのだから。
遠くで鐘の音が響く。江戸の町が目覚めようとしている。だがこの平和な朝の光景も、あと二日で失われてしまうかもしれない。千鶴は決意を新たにした。絶対に、鏡月斎の野望を阻止してみせる。