夜闇の中、私たちは組織の本拠地へと向かっていた。源蔵の案内で細い路地を縫うように進む足音が、静寂を破って響く。
「千鶴、大丈夫か」
慎之助の気遣いの声に、私は振り返って頷いた。心魂草の被害者たちを救うため調合した薬を懐に忍ばせながら、父の仇でもある鏡月斎との最終決戦への決意を胸に秘めていた。
組織の反対勢力のリーダーが待つという隠れ屋敷は、下町の奥深く、まるで迷宮のような路地の先にあった。古びた木造の建物は外観こそ何の変哲もないが、内部からは微かに薬草を煮詰めた匂いが漂ってくる。
「ここです」
源蔵が示した戸を開けると、薄暗い部屋の奥から一人の男が立ち上がった。年の頃は四十代半ば、痩身で鋭い眼光を持つその人物は、どこか見覚えのある面立ちをしていた。
「お待ちしておりました」
男の声を聞いた瞬間、私の胸に電撃のような衝撃が走った。その声の調子、話し方の癖。まるで父と話しているような錯覚に陥る。
「あなたは……」
私が言葉を失っていると、男は静かに微笑んだ。
「白川千鶴さん。随分と大きくなられた。最後にお会いしたのは、あなたがまだ七つの頃でしたか」
その時、記憶の奥底に眠っていた映像が蘇った。父と良く似た顔立ちの男性が、幼い私の頭を優しく撫でてくれていた光景。父が「弟の俊介だ」と紹介してくれた時のこと。
「俊介……叔父様?」
「ええ。白川俊介です。あなたの父の弟で、今は組織内部に潜入して機会を窺っている者です」
慎之助と源蔵が驚愕の表情を浮かべる中、私は混乱していた。長年行方知れずだった叔父が、まさかこのような形で現れるとは。
「叔父様がなぜここに……父の死後、消息が分からなくなったと聞いていましたが」
俊介叔父は深いため息をついて、部屋の奥へと歩いて行った。壁には様々な薬草の図版や、組織の構成員を示すらしき図表が貼られている。
「兄上が亡くなったあの夜、私も鏡月斎の手の者に襲われました。辛くも逃れることができましたが、その時から復讐の機会を狙って組織に潜入することを決意したのです」
叔父の言葉は静かだったが、その奥に燃えるような憎悪の炎が見えた。
「この十年間、私は鏡月斎の信頼を得るために、彼らの非道な実験に加担してきました。多くの無辜の民が犠牲になるのを見ながらも、兄上の仇を討つためだけに耐え忍んできたのです」
「そんな……」私は愕然とした。「父の仇のために、罪のない人々を犠牲にしたというのですか」
俊介叔父の表情が苦悶に歪んだ。
「それが私の業です。しかし、これ以上は見過ごせません。明け方に予定されている大規模実験を阻止するため、内部から手を打つつもりです」
慎之助が前に出た。
「お待ちください。この十年間、どれほど多くの人が組織の犠牲になったと思っているのですか。復讐とは言え、それを看過してきた責任は重い」
「慎之助」私は彼を制した。今は責任の追及よりも、これから起こる惨劇を防ぐことが先決だった。
しかし、心の奥では複雑な感情が渦巻いていた。長年会えなかった叔父への懐かしさ、組織に加担していた事実への憤り、そして父の仇を討とうとする気持ちへの共感。全てが混在して、どう感情を整理すべきか分からなかった。
「千鶴」俊介叔父が私の名を呼んだ。「あなたは兄上によく似ている。その薬草への深い愛情、人を救おうとする強い意志。しかし同時に、兄上とは違う強さも持っている」
「違う強さ?」
「兄上は純粋すぎました。だからこそ鏡月斎の裏切りに気づけなかった。しかしあなたは違う。疑うことを知り、それでも人を信じる心を失わない。それが真の強さです」
叔父の言葉に、私は父の最期の夜を思い出していた。あの時父が私に託そうとしていたもの、それは単なる薬草の知識だけではなかったのかもしれない。
「組織の構造図です」
俊介叔父が取り出した紙には、鏡月斎を頂点とする複雑な組織図が描かれていた。
「鏡月斎の右腕である暗黒医師・蝙蝠斎、薬草調合の専門家・蛇毒斎、そして実験体の管理を行う鬼面斎。この三人を倒さなければ、組織の息の根は止められません」
「叔父様はこの中でどのような立場に?」
「表向きは蛇毒斎の弟子として薬草調合に携わっています。しかし実際は、彼らの調合した毒草の解毒薬を密かに作り続けてきました」
源蔵が息を呑んだ。
「それでは、これまで実験から奇跡的に回復した者がいたのは……」
「ええ、私が密かに解毒薬を投与していたからです。しかし限界があります。明け方の大規模実験では、一度に百人以上が犠牲になる予定。とても一人では救いきれません」
私は立ち上がった。迷いは消えていた。叔父がこれまで犯した罪は重い。しかし今、目の前の人々を救うために手を組むことに躊躇はなかった。
「叔父様、私たちと共に戦ってください。父の仇討ちのためではなく、これ以上犠牲者を出さないために」
俊介叔父の目に涙が光った。
「千鶴……あなたは本当に兄上の娘だ。そして兄上を超える器を持っている」
その時、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。源蔵が窓の隙間から外を覗く。
「組織の追っ手です!どうやら居場所を嗅ぎつけられたようです」
「私の正体が露見したか」俊介叔父が苦い表情を浮かべた。「これで内部からの工作は不可能になりました」
慎之助が腰の刀に手をかける。
「ならば正面から乗り込むまでです」
「待ってください」私は懐から心魂草の解毒薬を取り出した。「叔父様、これを」
「これは……完璧な調合だ。兄上でも、これほどの純度は出せなかったでしょう」
足音がますます近づいてくる。私たちに残された時間は僅かだった。
「今夜が最後の機会です」俊介叔父が決意を込めて言った。「千鶴、あなたの力があれば、必ず多くの人を救えるはずです」
その瞬間、戸が激しく叩かれた。いよいよ最終決戦の時が来たのだ。私は叔父の手を握り、共に立ち向かう覚悟を示した。父の無念を晴らし、罪のない人々を救うために。