剣戟の音が広間に響き渡った瞬間、千鶴の心に一筋の希望の光が差し込んだ。慎之助が来てくれたのだろうか。それとも——
「ふふふ、予想通りですね」
鏡月斎の口元に薄い笑みが浮かんでいる。その表情に、千鶴の胸に嫌な予感が宿った。
「何を企んでいるの」
「企み?いえいえ、これも全て予定調和なのですよ。あなたがここに辿り着くことも、桐生慎之助が駆けつけることも、すべて私の掌の上での出来事です」
鏡月斎は懐から小さな竹筒を取り出した。淡い紫色の粉末が入っている。
「これは何?」
「心魂草の精製粉末です。ただし、これは記憶を操作するために特別に調合したもの。あなたには長年、この薬の力で様々な記憶を植え付けてきました」
千鶴の血の気が引いた。記憶の操作——それが意味することを、薬草師としての知識が告げていた。
「まさか...」
「そのまさかです。あなたの幼少期の記憶、父君との温かな思い出の数々、桐生慎之助との楽しかった子供時代——それらの多くは、私が作り上げた偽りの記憶なのです」
鏡月斎の言葉が千鶴の心を氷のように凍らせていく。幸せだった記憶の数々が、まるで蜃気楼のように揺らめき始める。
「嘘よ!父との記憶は本物よ。薬草を教えてくれた時のこと、一緒に山で薬草を採った日々、全部覚えている」
「覚えている?本当にそうでしょうか」
鏡月斎が竹筒を軽く振ると、紫の粉末が舞い踊る。その瞬間、千鶴の頭の中で記憶の断片がめまぐるしく駆け巡った。
父が微笑みかけてくれた顔。薬草の名前を優しく教えてくれた声。山道を手を繋いで歩いた感触——それらが次第にぼやけて、まるで水に溶けるように曖昧になっていく。
「やめて...」
「思い出してください。本当の記憶を。あなたの父君は確かに薬草師でしたが、私の研究に協力することと引き換えに、借金を肩代わりしてもらっていた。そして生まれたばかりのあなたを、実験体として差し出したのです」
千鶴の膝がガクガクと震え始める。脳裏に新たな記憶が蘇ってきた——薄暗い部屋で泣き続ける赤子の自分。冷たい目で見下ろす父の姿。そして、注射器を手にした若き日の鏡月斎。
「いや...いやよ!」
「桐生慎之助との記憶はどうでしょう?彼は最初から監視役として送り込まれた存在です。あなたの成長を見守り、心魂草への適性を調べるために」
慎之助との楽しかった思い出が、次々と別の色彩を帯び始める。一緒に遊んだ記憶の中で、彼がじっと千鶴を観察していた瞬間。不自然なほど優しかった態度。そして——
「やめて!やめてよ!」
千鶴は両手で頭を抱えた。真実の記憶と偽りの記憶が入り混じり、どれが本物なのか分からなくなっていく。愛しい思い出が崩れ去っていく痛みに、心が引き裂かれそうになった。
「お雪さんを見なさい」
鏡月斎の指先が、床に倒れているお雪を示した。
「彼女も同じです。心魂草で人格を消去される前、幸せな偽りの記憶を植え付けられていました。茶屋での楽しい日々、お客様との温かな触れ合い、すべて作り物の記憶です」
お雪の苦しげな表情を見つめていると、千鶴の中で何かが崩壊していく音が聞こえた。自分が信じてきたもの、大切にしてきたもの、それらが次々と偽物だったと告げられる絶望感。
「なぜ...なぜこんなことを」
「より完璧な心魂草を作るためです。人の心を自在に操り、記憶を書き換え、感情をコントロールする究極の薬草。そのために、生まれた時からあなたを実験体として育て上げてきたのです」
千鶴の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。怒りを通り越して、深い絶望が心を支配していた。
「私の人生は...すべて嘘だったの?」
「すべてではありません。薬草への知識、人を救いたいという想い、それらはあなた本来のものです。ただし、それすらも私の計画の一部として利用させていただきました」
鏡月斎の冷酷な笑みが、千鶴の心をさらに深い淵へと突き落とす。自分が何者なのか、何を信じればいいのか、もう分からなくなっていた。
その時、広間の扉が勢いよく開かれた。
「千鶴!」
慎之助の声が響いた瞬間、千鶴の心に複雑な感情が渦巻く。彼への愛しい想いと、監視役だったかもしれないという疑念。どちらが真実なのか——
「来ましたね、桐生慎之助殿」
鏡月斎が振り返る。その手には新たな竹筒が握られていた。
「今度は彼の記憶も、正しく修正してさしあげましょうか」
千鶴は立ち上がろうとしたが、絶望の重さに足がもつれてしまう。慎之助が自分を見つめる眼差しに、本当の想いが宿っているのだろうか。それとも、すべては演技だったのだろうか。
「慎之助さん...あなたは」
言葉が喉の奥で詰まった。信じたい気持ちと疑いたくない想いが、千鶴の心を引き裂いていく。
鏡月斎の手が竹筒の蓋に向かって伸びる。そして——