お雪の瞳の奥に宿った僅かな光は、まるで暗闇に灯った蝋燭のように頼りなく揺らめいていた。千鶴は震える手でお雪の頬に触れ、その冷たさに胸を締め付けられる。

「お雪、私よ。千鶴よ。覚えていて」

 千鶴の必死の呼びかけに、お雪の唇がかすかに動いた。しかし、次の瞬間、お雪の表情は再び人形のような無表情に戻ってしまう。

「千鶴様。鏡月斎様がお待ちです。こちらへ」

 機械的な声でお雪は立ち上がり、迷宮の奥へと歩き始めた。千鶴は迷いながらもその後を追う。慎之助とはぐれてしまった今、お雪だけが頼りだった。たとえ彼女が操り人形と化していても。

 薄暗い通路を抜けると、突然視界が開けた。そこは円形の広間で、中央に巨大な鏡が据えられている。鏡の表面には不気味な文様が刻まれ、周囲には見たことのない薬草が植えられた鉢が並んでいた。

「よく来たな、千鶴」

 低く響く声に千鶴は身を強張らせた。鏡の向こうから現れたのは、白い外套を纏った長身の男だった。鏡月斎——千鶴が幾度となく悪夢に見た、あの冷酷な医師の姿がそこにあった。

「貴方が鏡月斎ね」

 千鶴の声は思いのほか冷静だった。しかし、心臓は激しく脈打ち、手のひらには汗が滲んでいる。

「その通りだ。君とは長い付き合いになる。もっとも、君は私のことを知らなかっただろうが」

 鏡月斎の口元に薄い笑みが浮かんだ。それは蛇のように冷たく、千鶴の背筋を凍らせる。

「何の話?」

「君の父、白川源三郎のことだ」

 父の名前が出た瞬間、千鶴の全身に電撃が走った。

「父を知っているの?」

「知っているも何も、彼は私の最も優秀な協力者だった。心魂草の研究において、彼ほど才能のある男はいなかった」

 千鶴の世界が音を立てて崩れていくのを感じた。父が心魂草の研究に関わっていただなんて。

「嘘よ。父がそんなことをするはずがない」

「嘘?では、これを見るがいい」

 鏡月斎が手をかざすと、大きな鏡の表面に映像が浮かんだ。それは若い頃の父の姿だった。白衣を着て、実験台の上で苦しむ人間を前に、冷静に記録を取っている父の姿が。

「これは幻よ。心魂草の幻覚」

 千鶴は必死に否定したが、映像の中の父は間違いなく本人だった。その手つき、表情、全てが千鶴の記憶にある父そのものだった。

「君の父は確かに優秀だった。だが、ある時から研究に疑問を抱くようになった。そして、組織から離脱しようとした」

 鏡月斎の声が低く響く。

「君が生まれた頃からだったな。父親になったことで、急に人道的になったのか、人体実験に反対し始めた。そして、研究資料を全て燃やそうとした」

 映像が変わり、炎に包まれた研究室が映し出された。その中で必死に資料を燃やそうとする父の姿があった。

「だから、組織は彼を始末することにした。火事に見せかけて」

 千鶴の膝が崩れそうになった。父の死は事故ではなかったのか。

「貴方が父を殺したの?」

「直接手を下したのは私ではない。だが、命令は私が出した。彼は組織にとって危険な存在になっていたからな」

 千鶴の中で何かが音を立てて壊れた。愛する父を奪った男が、今、目の前にいる。

「許さない」

 千鶴の声は怒りで震えていた。

「だが、君の父の死は無駄ではなかった。彼の研究は私が引き継いだ。そして、君という最高の実験対象を手に入れることができた」

「実験対象?」

「君は生まれた時から心魂草の影響を受けている。君の父が妊娠中の母親に少量ずつ投与していたのだ。研究のためにな」

 千鶴の頭の中が真っ白になった。自分が生まれる前から実験対象だったというのか。

「君の優れた薬草への感受性、人の心を読む能力、全ては心魂草の影響だ。君は私たちが作り上げた、完璧な実験体なのだ」

 鏡月斎の言葉が千鶴の心を容赦なく切り裂いた。自分の能力も、薬草への深い理解も、全てが人工的に作られたものだったのか。

「そして、君の父が離脱を決意した後も、私たちは君を監視し続けた。君が成長し、能力を開花させるのを待っていたのだ」

 千鶴は震える手で頭を抱えた。自分の人生の全てが、組織によって操られていたなんて。

「慎之助との出会いも偶然ではない。彼は君を監視するために配置された。同心という立場を利用して、君の近くにいることができるからな」

「嘘よ。慎之助は私の幼馴染よ」

「幼馴染?それも仕組まれたことだ。君が信頼する人物を通じて監視することが最も効果的だからな」

 千鶴の世界が完全に崩壊した。愛する父は組織の一員で、自分は生まれる前から実験対象で、信頼していた慎之助も監視役だったのか。

 その時、広間の隅からかすかな音が聞こえた。振り返ると、お雪が苦しそうに頭を抱えていた。

「お雪?」

「千鶴...様...」

 お雪の口から絞り出されたような声が聞こえた。鏡月斎の話を聞いて、何かが彼女の中で変化を起こしているのだろうか。

「おや、実験体が反応しているな」

 鏡月斎が興味深そうにお雪を見つめた。

「お雪は心魂草によって人格を消去されたはずだが、君への想いが残っているようだ。興味深い現象だ」

 千鶴は立ち上がり、お雪の元へ駆け寄った。

「お雪、しっかりして」

「千鶴様...逃げて...」

 お雪の瞳に再び光が宿った。それは先ほどよりもはっきりとした、人間らしい光だった。

「逃げて...鏡月斎は...貴女を...」

 お雪の言葉は途切れがちだったが、千鶴への警告であることは明らかだった。

「面白い。愛情という感情は心魂草の効果をも上回るのか」

 鏡月斎が手に小さな瓶を取り出した。中には青い液体が入っている。

「だが、これで全てが終わる。この濃縮された心魂草の精製液を飲めば、君も完全に私の支配下に入る。そして、新たな実験の第一段階が始まるのだ」

 千鶴は後ずさりした。しかし、広間は円形で逃げ場がない。

「安心しろ。痛みはない。ただ、君という個人は消滅し、私の意志で動く完璧な実験体となるだけだ」

 鏡月斎がゆっくりと近づいてくる。千鶴は薬草袋に手を伸ばしたが、鏡月斎と戦えるような薬草は持っていない。

 絶望的な状況の中で、千鶴の心に父の最後の言葉が蘇った。「真実を見極める目を持ちなさい」。父は最期まで、千鶴のことを想っていたのではないか。組織を裏切ってでも守ろうとしていたのではないか。

「父は最後まで私を愛していた」

 千鶴の声に力が戻った。

「貴方の言葉が全て真実だとしても、父が最後に選んだのは組織ではなく、私だった」

 鏡月斎の足が止まった。

「そして、慎之助が本当に監視役だったとしても、今の彼の気持ちは本物よ」

 千鶴の瞳に強い光が宿った。それは心魂草によって与えられたものではない、彼女自身の意志の光だった。

「君がどう思おうと関係ない。現実は変わらない」

 鏡月斎が再び歩き始めたその時、広間の入り口から剣の音が響いた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

21

父の罪

霧島 彩乃

2026-04-10

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第21話 父の罪 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版