慎之助の姿が鏡の向こうに消えてから、どれほどの時が過ぎただろうか。千鶴は薄暗い廊下を一人歩きながら、胸の奥で募る不安と戦っていた。足音だけが石造りの壁に反響し、まるで自分の心音を外に晒しているかのような錯覚を覚える。

 曲がり角を幾つも過ぎ、やがて微かな明かりが見えてきた。それは蝋燭の暖かな光で、千鶴は安堵のため息をついた。光の方へ足を向けると、小さな部屋の入り口が現れる。

「千鶴さん」

 聞き慣れた声に振り返ると、そこにはお雪が立っていた。いつものように可憐な微笑みを浮かべ、白い着物を纏った姿は、この不気味な迷宮の中では一筋の救いのように映った。

「お雪さん。どうしてここに?」

「あなたを探していたのです。一人では危険ですから」

 お雪は静かに歩み寄ってくる。その足取りに、千鶴は何か違和感を覚えた。いつものお雪なら、もっと慌てふためいているはずなのに、今の彼女は妙に落ち着いている。まるで、この迷宮の構造を熟知しているかのように。

「慎之助さんとはぐれてしまって」千鶴は警戒心を抑えつつ答えた。「お雪さんは、どうやってここまで来られたのですか?」

「それは……」お雪の表情が一瞬曇る。「よく覚えていないのです。気がついたら、ここにいました」

 その答えに、千鶴の心に小さな棘が刺さった。記憶が曖昧だという点は確かにお雪らしいが、何かが違う。何かが、決定的に違っている。

「お雪さん、以前お話しした桜餅のことを覚えていらっしゃいますか?」

 千鶴は試すように問いかけた。お雪は少し考えるような仕草を見せてから、にっこりと笑った。

「もちろんです。春になったら一緒に食べましょうと約束しましたね」

 その答えは正しかった。しかし千鶴は、お雪の瞳の奥に宿る何かに気づいてしまった。それは温かみのない、まるで人形のような空虚さだった。

「お雪さん」千鶴は一歩後ずさった。「あなたは本当にお雪さんなのですか?」

 問いかけた瞬間、お雪の表情が変わった。今まで浮かべていた優しい微笑みが消え、無機質な冷たさがその顔を支配する。

「さすがは薬草師の娘ですね」

 お雪の口から発せられた声は、確かにお雪のものだった。しかしそこに込められた感情は、千鶴の知っているお雪とは全く別人のものだった。

「あなたは」千鶴の声は震えていた。「あなたは一体」

「私はお雪です。間違いなく、茶屋『花月』で働いていたお雪です」

 お雪はゆっくりと千鶴に近づいてくる。その歩み方は先ほどとは打って変わって機械的で、まるで操り人形のようだった。

「ただし」お雪は続けた。「あなたが知っているお雪は、もうここにはいません」

 千鶴の背筋に冷たいものが走った。お雪の瞳を見つめていると、そこには確かに記憶があった。千鶴との思い出も、茶屋での日々も、すべて残っている。しかしそれらの記憶は、まるで本に書かれた物語のように、感情を伴わない単なる情報として存在しているだけだった。

「心魂草の実験の最初の成功例が、私だったのです」お雪は淡々と語った。「鏡月斎様は私を使って、人の心を完全に支配する方法を確立されました。私の人格、私の意志、私の感情、すべてが消去され、新しい指令がインプットされたのです」

「そんな」千鶴は震える声で呟いた。「そんなことが」

「最初の指令は、あなたに近づくことでした。薬草師の娘である千鶴に信頼され、情報を得ること。そして適切な時期に、あなたをこの迷宮へと誘導すること」

 お雪の告白に、千鶴は膝が崩れそうになった。今まで築いてきた友情も、共に過ごした時間も、すべてが偽りだったというのか。

「でも」千鶴は必死に反論した。「あなたは確かに苦しんでいた。幻覚に怯え、記憶を失うことを恐れていた。あれは演技だったというのですか?」

「いいえ」お雪は首を振った。「あれは演技ではありません。私の中に残った僅かな人間性が、消去されることに抵抗していたのです。しかしその抵抗も、今では完全に取り除かれました」

 千鶴の目に涙が滲んだ。目の前に立っているのは確かにお雪だった。しかし千鶴が愛した、守ろうとしたお雪は、もうここにはいないのだ。

「私はずっと」千鶴の声は涙で掠れていた。「ずっとあなたを救おうと思っていました。心魂草の正しい使い方を見つけて、あなたを元に戻そうと」

「救済など必要ありません」お雪は冷たく答えた。「今の私は完璧です。迷いも苦しみもありません。鏡月斎様の意志のままに行動できる、理想的な存在なのです」

 その言葉に、千鶴の悲しみが怒りに変わった。人の心を奪い、意志を踏みにじる鏡月斎への憤りが胸の内で燃え上がる。

「鏡月斎は」千鶴は拳を握りしめた。「人の心を何だと思っているのです。お雪さんの優しさも、恐れも、すべてがお雪さんそのものだったのに」

「心とは不完全なものです」お雪は機械的に答えた。「感情に左右され、間違いを犯す。それらを取り除くことで、人は真の完璧に近づけるのです」

「それは完璧ではありません」千鶴は強い口調で言った。「それはただの人形です」

 お雪の表情が微かに変わった。まるで千鶴の言葉に何かを感じたかのように。しかしその変化は一瞬で、すぐに元の無表情に戻ってしまった。

「さあ、千鶴さん。鏡月斎様がお待ちです」お雪は千鶴の手を取ろうとした。「あなたも私と同じように、完璧な存在になるのです」

 千鶴はその手を振り払った。お雪の皮膚は氷のように冷たく、まるで生気を失っているかのようだった。

「私は行きません」千鶴はきっぱりと断った。「そして、あなたを諦めることもしません。お雪さんが完全に消えてしまったとは思えないのです」

 お雪の瞳に、一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。それは僅かな変化だったが、千鶴は見逃さなかった。

「お雪さん」千鶴は懸命に呼びかけた。「あなたは本当に何も感じないのですか?桜の花を見ても、暖かい茶を飲んでも、何も」

「感じません」お雪は答えたが、その声は先ほどよりも小さかった。「感じる必要もありません」

 しかし千鶴には分かった。お雪の奥底に、まだ何かが残っている。完全に消去されたと思われた人格の欠片が、まだ存在している。

「なら、なぜ」千鶴は一歩踏み出した。「なぜあなたの手は震えているのですか?」

 お雪は自分の手を見下ろした。確かに、僅かだが手が震えていた。

「これは」お雪は動揺した。「これは機能の不具合です。修正が必要です」

「不具合ではありません」千鶴は力強く言った。「それは、あなたの心が完全に消えていない証拠です」

 お雪は後ずさった。その顔に、初めて人間らしい感情が浮かんだ。それは混乱と、そして僅かな恐怖だった。

「いけません」お雪は頭を振った。「私は完璧でなければならないのです。鏡月斎様の期待に応えなければ」

「お雪さん」千鶴は優しく声をかけた。「あなたは誰の期待に応える必要もありません。ただ、あなた自身であればいいのです」

 その時、廊下の向こうから低い笑い声が響いてきた。鏡月斎の声だった。

「なかなか興味深い実験結果ですね」

 二人は声の方を振り返った。暗闇の中から、鏡月斎の姿がゆっくりと現れる。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

20

お雪の真実

霧島 彩乃

2026-04-09

前の話
第20話 お雪の真実 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版