千鶴が茜たちの魂の影と向き合う一方で、慎之助は迷宮の別の回廊で一人、暗闇の中を進んでいた。足音が石畳に響く度に、壁の鏡が歪んだ光を投げかける。それは時として炎のようにゆらめき、時として氷のように冷たく輝いた。
「千鶴……」
慎之助は呟いた。途中で千鶴とはぐれてしまい、どれほど歩いても彼女の姿は見えない。焦りが胸を締め付ける。またしても、彼女を守れずにいるのか。
突然、前方に淡い光が見えた。慎之助は歩を速める。だが光に近づくにつれ、奇妙な違和感を覚えた。それは温かな光ではなく、どこか不吉な冷たさを帯びていた。
光の源は、円形の部屋の中央に置かれた大きな鏡だった。その表面は水のように波打ち、慎之助の姿を歪めて映し出している。彼は警戒しながらも、鏡に近づいた。
「よくここまで来たな、桐生慎之助」
背後から声がした。振り返ると、そこには見知った顔があった。慎之助自身の顔が。
「何者だ」
慎之助は刀の柄に手をかける。しかし、もう一人の慎之助は笑みを浮かべるだけだった。
「俺はお前だ。お前の中にある弱さ、恐怖、後悔……それらすべてが形を取った存在だ」
影の慎之助は言った。その表情は本物と同じでありながら、どこか邪悪な光を宿していた。
「心魂草の力が、この迷宮でお前の内面を映し出している。逃れることはできぬ」
「くだらん」
慎之助は刀を抜いた。しかし影は動じない。
「本当にくだらんか? お前はいつも千鶴を守ると誓いながら、結局彼女を危険に晒してばかりではないか」
その言葉は慎之助の胸に突き刺さった。
「違う……」
「違わぬ。思い出してみろ。あの日のことを」
突然、部屋の光景が変わった。慎之助は十歳の頃の記憶の中にいた。千鶴の父である白川老人の薬草店で、幼い千鶴と遊んでいる。
「慎之助様、今度お山に薬草を取りに行くの。一緒に来る?」
幼い千鶴の声が聞こえる。慎之助は頷いていた。だがその記憶の続きで、千鶴が崖から足を滑らせそうになったのを思い出す。あの時、慎之助は恐怖で体が動かなかった。千鶴は自力で這い上がったが、もし落ちていたら……
「見ろ、あの時から何も変わっていない」
影の慎之助が嘲笑う。
「お前は千鶴を守ると言いながら、肝心な時にはいつも役に立たない」
記憶がまた変わる。今度は最近の出来事だった。鏡月斎の手下に襲われた時、千鶴が薬で朦朧となった際、そして今回この迷宮に入った時も……慎之助は自分の無力さを思い知らされてばかりだった。
「お前のような男が同心を名乗るなど、笑止千万だ」
影の言葉に、慎之助の心は揺らいだ。確かにその通りかもしれない。自分は千鶴の足手まといになっているだけではないのか。
「そうだ、認めろ。お前は弱い男だ。千鶴はお前など必要としていない」
慎之助は膝をついた。心の奥底にあった劣等感と後悔が、まるで毒のように全身に回る。
だが、その時だった。
「慎之助!」
千鶴の声が響いた。幻聴かと思ったが、確かに彼女の声だった。どこか遠くから聞こえてくる。
「千鶴……?」
慎之助は顔を上げる。すると、鏡の表面に千鶴の姿が映った。彼女は迷宮の別の場所で、茜たちの魂と向き合っている。その表情は不安に満ちているが、同時に強い意志を宿していた。
「お前を呼んでいるぞ。だが、この状態のお前に何ができる?」
影の慎之助が嘲る。しかし、今度は慎之助も負けていなかった。
「確かに俺は弱い男かもしれん」
慎之助は立ち上がった。
「だが、それがどうした? 強くなればいい。千鶴を守れるように、この手で正義を貫けるように」
影の表情が変わる。
「強さとは、完璧であることではない。失敗を恐れず、倒れても立ち上がることだ」
慎之助は刀を構えた。今度は迷いがない。
「俺は千鶴を愛している。彼女を守りたいと思っている。それは紛れもない真実だ。だから俺は戦う」
「綺麗事を……」
「綺麗事で結構。俺はこの心を信じる」
慎之助は影に向かって駆けた。影も同じように刀を抜いて応戦する。二つの刀がぶつかり合い、火花が散った。
戦いながら、慎之助は悟った。この影は倒すべき敵ではない。自分自身の一部なのだ。弱さも恐れも、すべて含めて桐生慎之助なのだ。
「お前も俺だ」
慎之助は刀を下ろした。
「俺の弱さも、恐れも、すべて受け入れよう。だがそれに支配されはしない」
影の慎之助は驚いたような表情を見せた。そしてゆっくりと微笑む。
「そうか……ようやく分かったのだな」
影の姿が光に包まれ、慎之助の中に吸い込まれていく。慎之助は深く息を吸った。心が軽くなったような気がする。
鏡の向こうで、千鶴が振り返った。まるで慎之助の存在を感じ取ったかのように。
「千鶴、必ず君のもとへ行く」
慎之助は新たな決意を胸に、迷宮の奥へと歩を進めた。今度こそ、彼女を守り抜くために。
だが、その時、鏡の奥から別の声が響いてきた。鏡月斎の声だった。
「面白い。だが、本当の試練はこれからだ、桐生慎之助」