千鶴は震える手で迷宮の奥へと足を向けた。慎之助の温かな手が肩に触れ、彼女は僅かに振り返る。
「千鶴、一人で背負う必要はない」
慎之助の声は優しく、しかし決意に満ちていた。千鶴は小さく頷くと、再び前を向く。父と鏡月斎の過去を知った今、すべてを理解せねばならない。心魂草の真実を、そしてこの迷宮に囚われた魂たちの嘆きを。
廊下は次第に狭くなり、壁に埋め込まれた鏡も歪みを増していく。鏡面に映る二人の姿は時折、全く別の人影に変わった。若い女性、年老いた男性、子供のような小さな影──それらはすべて苦悶の表情を浮かべ、助けを求めるように手を伸ばしていた。
「あの人たちは……」
千鶴の呟きに答えるように、空気が急に冷たくなった。廊下の先から、微かな泣き声が聞こえてくる。それは一人の声ではない。何十人、いや何百人もの嘆きが重なり合った、この世のものとは思えぬ合唱だった。
突然、千鶴の前に薄い影がゆらりと現れる。それは若い女性の姿をしており、白い着物を纏っていた。顔立ちは美しいが、瞳には深い絶望が宿っている。
「ようこそ……薬草師の娘よ」
影の女性が口を開く。その声は風のように儚く、しかし確かに千鶴の耳に届いた。
「私は……私は茜と申します。かつては呉服屋の一人娘でした」
茜と名乗った女性の影は、千鶴を見つめながら続ける。
「三年前、原因不明の熱病に苦しんでいた私を、鏡月斎様が救ってくださいました。新しい薬草の効果を試したいと仰って……私は喜んで協力いたしました」
「それが心魂草だったのですね」
千鶴の問いに、茜は悲しげに微笑んだ。
「はい。最初はとても効果がありました。熱は下がり、体調も良くなって。でも……でも、それからが地獄の始まりでした」
茜の姿が次第に鮮明になっていく。そして千鶴は息を呑んだ。美しい顔立ちの女性だったが、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。
「心魂草は確かに病を治します。しかし、それと引き換えに人の心を奪うのです。最初は小さな記憶から始まります。幼い頃の思い出、大切な人の顔……そして次第に、自分が何者なのかも分からなくなっていく」
慎之助が千鶴の側に歩み寄る。
「それでは、なぜ鏡月斎は実験を続けたのだ」
「彼は気づいていました」茜の声が次第に切ないものとなる。「でも止められなかった。心魂草を使えば、どんな病気も治せる。どんな傷も癒せる。完璧な治療薬として世に送り出せると信じて……いえ、信じたかったのでしょう」
茜の姿の周りに、他の影たちがゆらゆらと現れ始めた。老人、若者、子供──みな同じように虚ろな瞳をしている。
「私たちは皆、鏡月斎様の実験体でした」
今度は老人の影が口を開く。
「商人だった私は、心の病に苦しんでおりました。心魂草を服用してからは確かに病は治まりましたが……家族の顔も、商売の仕方も、自分の名前すらも忘れてしまいました」
「僕は足の傷が治らなくて」
子供の影が小さな声で続ける。
「でも薬を飲んだら、足は治ったけど……お母さんのことが分からなくなっちゃった。お母さんが泣いてるのを見ても、なんで泣いてるのか分からないの」
千鶴の胸に激しい痛みが走る。これが心魂草の真実だったのか。病を治す代償として、人としての根幹である記憶と感情を奪い去る恐ろしい薬草。
「お父様は……父はそのことに気づいていたのですね」
千鶴の問いに、茜が頷く。
「玄庵様は最初から疑念を抱いておられました。薬草には必ず副作用があると。そして実際に私たちを見て、研究から手を引かれたのです」
「でも鏡月斎は諦めなかった」
慎之助の声が低く響く。
「より多くの人を救うためだと言い訳をして、実験を続けたのだな」
影たちがざわめき始める。その中から、聞き覚えのある声が千鶴の耳に届いた。
「千鶴ちゃん……」
振り返ると、そこには見慣れた着物姿の少女がいた。お雪だった。しかし、その姿は半透明で、他の影たちと同じように儚げだった。
「お雪!」
千鶴は駆け寄ろうとするが、お雪の姿は手を伸ばすたびに遠ざかっていく。
「私も同じなの」お雪の声は涙に濡れていた。「心魂草を飲まされて……大切な思い出がどんどん消えていく。千鶴ちゃんとの楽しい時間も、家族の温かさも、全部……全部忘れてしまいそうなの」
「そんな……」千鶴の声が震える。「お雪を助ける方法はないのですか。何か、何か方法が」
茜たち影の実験体たちが、千鶴を取り囲むように集まってくる。しかし、それは威圧的なものではなく、むしろ哀れみと希望に満ちた視線だった。
「あります」茜が静かに言う。「ただし、それは非常に危険な道です」
「どのような方法ですか」慎之助が身を乗り出す。
「心魂草の効果を逆転させる方法……それは魂の記憶を直接呼び戻すこと。しかし、それを行うには心魂草の力を制御し、自らの魂を賭けなければなりません」
老人の影が続ける。
「玄庵様はその方法を知っておられたはずです。しかし、あまりに危険すぎるため、決して実行されなかった」
「危険とは」千鶴の心臓が激しく鼓動する。
「術者自身が心魂草の影響を受け、最悪の場合、魂そのものを失う可能性があるということです」子供の影が怖そうに呟く。「でも、成功すれば心魂草に奪われたすべての記憶と感情を取り戻すことができます」
千鶴の脳裏に、父・玄庵の研究ノートに書かれていた暗号化された文章が浮かんだ。あれは心魂草の制御方法だったのかもしれない。
「千鶴、危険すぎる」慎之助が千鶴の腕を掴む。「他の方法を探そう」
「でも……」千鶴はお雪の儚げな姿を見つめる。「このままでは、お雪も、他の皆さんも永遠に苦しみ続けることになる」
その時、迷宮の奥から鏡月斎の声が響いてきた。
「千鶴よ、ここまで来たのならば、最後まで真実を見届けるがよい。お前の父が隠し続けた、最も重要な秘密を教えてやろう」
影たちがざわめく中、千鶴と慎之助は顔を見合わせる。すべての真実が明らかになる時が、ついに来たのだ。