真実を映す鏡の前で、千鶴と慎之助は束の間の安らぎを得ていた。父・玄庵の本当の姿を知り、長い間心を縛っていた疑念が解けたのだった。しかし、鏡月斎の声が迷宮に響いた瞬間から、空気は再び重苦しいものへと変わっていく。

「よくここまで辿り着いたものだ」

 声の主は姿を現さないまま、まるで迷宮そのものが語りかけているかのように響く。千鶴は慎之助の手を握り締めた。

「最後の試練とは何のことですか」

 千鶴の問いかけに、鏡月斎の笑い声が答える。

「真実を知りたいのだろう?ならば、すべてを受け入れる覚悟が必要だ。お前の父親についても、な」

 その言葉と共に、周囲の鏡が一斉に光を放った。真実を映していた特別な鏡も、その光に包まれて別の映像を映し始める。千鶴は息を呑んだ。そこに映っていたのは、見覚えのある薬草店の奥座敷だった。

 映像の中で、若い頃の父・玄庵が机に向かって何かを書いている。その向かいに座る人影に、千鶴の心臓は激しく跳ね上がった。

「まさか…」

「父上?」

 慎之助も同様に驚愕の表情を浮かべている。映像の中で玄庵の向かいに座っているのは、間違いなく鏡月斎だった。しかし今のような冷酷さはなく、むしろ熱意に満ちた青年医師の面影がある。

「心魂草の特性について、もう一度確認させてくれ」

 映像の中の鏡月斎が口を開く。

「人の精神に働きかける力は確かに危険だが、正しく使えば心の病を治すことができる。私たちの研究が成功すれば、多くの人々を救えるはずだ」

 玄庵が頷く。

「そうですね。ただし、絶対に悪用されてはならない。だからこそ、慎重に進めなければ」

 千鶴は目を疑った。父が鏡月斎と心魂草の研究を共に行っていたというのは事実だったのだ。しかも、その目的は人を救うことだった。

「信じられません…」

 呟く千鶴に、鏡月斎の声が響く。

「これが真実の始まりだ。お前の父親と私は、かつて同じ志を持つ仲間だった」

 映像は続く。二人の研究は順調に進んでいるように見えた。心魂草の調合法を改良し、より安全で効果的な薬を作り出そうとしている。千鶴が知る限り、父は一人でその研究を行っていたはずだった。

「父上は、なぜこのことを隠していたのだろう」

 慎之助が困惑している。千鶴も同じ思いだった。なぜ父は、この重要な事実を娘である自分に話さなかったのか。

 映像が変わった。今度は別の場所、薄暗い蔵のような空間が映し出される。そこには多くの薬草が保管され、大きな調合台が置かれていた。玄庵と鏡月斎が、何かを真剣に議論している。

「やはり、この配合では効果が強すぎる」

 玄庵の表情に不安の色が浮かんでいる。

「確かに予想以上だが、これこそが我々の求めていたものではないか」

 鏡月斎の目に、千鶴の知る冷酷さの片鱗が現れ始めている。

「しかし、被験者の様子を見てください。明らかに正常な状態ではありません」

 玄庵が指し示す方向に、映像が移る。そこには檻のような場所に何人かの人影が見えた。その中の一人が、ゆっくりと顔を上げる。

「お雪…」

 千鶴の唇から、震え声が漏れた。映像に映っているのは、間違いなく若い頃のお雪だった。しかし、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜けてしまったかのようだ。

「これは…父上が?」

 慎之助も愕然としている。千鶴は頭を振った。

「いえ、違います。父の表情を見てください」

 確かに、玄庵の顔には深い後悔と苦悩が刻まれている。一方の鏡月斎は、被験者たちの様子を冷静に観察していた。

「予想以上の効果だ。これなら、人の記憶や感情を自在に操ることができる」

「それは我々の目的ではありません!」

 玄庵が立ち上がって抗議する。

「人の心を救うための研究だったはずです。これでは、ただの人体実験ではありませんか」

「理想論だな、玄庵」

 鏡月斎の声が冷たくなる。

「薬というものは、使い方次第で毒にも薬にもなる。この力を正しく使えば、世の中をより良くできるのだ」

「正しくとは、いったい何を指すのですか」

「無駄な争いをなくし、人々を正しい道に導く。そのために多少の犠牲は…」

「やめてください!」

 玄庵の怒声が響く。

「人の心を操るなど、神をも恐れぬ行いです。私はこの研究から手を引きます」

 映像の中で、二人の間に深い溝が生まれる瞬間だった。千鶴は胸が締め付けられる思いで見つめていた。父は正しい判断をしようとしていたのだ。

「手を引く?それは困る」

 鏡月斎の表情が一変する。

「君がいなければ、心魂草の調合はできない。君だけが知っている秘伝があるはずだ」

「それこそが、この研究をやめる理由です」

 玄庵が毅然として答える。

「危険すぎる知識は、世に出してはならない」

 映像が再び変わった。今度は千鶴の家の薬草店が映っている。夜更けに、鏡月斎が数人の部下と共に現れた。玄庵は千鶴をかばうように後ろに隠している。

「最後の機会だ、玄庵。心魂草の完全な調合法を教えてくれ」

「断ります。そして、今すぐこの研究をやめなさい」

「それはできない相談だ」

 鏡月斎が合図をすると、部下たちが動き出す。玄庵は必死に抵抗しようとするが、多勢に無勢だった。

「父上…」

 映像の中で幼い千鶴が泣いている。その姿を見て、現在の千鶴の目にも涙が溢れた。

「私、覚えています…この夜のことを」

 断片的に記憶が蘇ってくる。あの夜、父は何者かに連れ去られそうになった。しかし、映像はそこで途切れてしまう。

「その続きが知りたければ、最深部へ来い」

 鏡月斎の声が再び響く。

「すべての真実が、そこで明かされる」

 鏡たちの光が消え、新たな道が現れた。千鶴と慎之助は顔を見合わせる。

「千鶴、無理をすることはない」

 慎之助が心配そうに言う。

「ここまででも、十分すぎるほどの真実を知った」

 千鶴は首を横に振った。

「いえ、最後まで知りたいのです。父がなぜ生きているのか、そして鏡月斎が何を企んでいるのか」

 立ち上がった千鶴の瞳に、強い意志の光が宿っている。

「お雪さんを救うためにも、すべてを知らなければなりません」

 二人は手を取り合い、迷宮の最深部への道を歩み始めた。背後で鏡たちが静かに輝きを放っている。まるで、彼らの行く先に待ち受ける運命を見守っているかのように。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

17

過去の影

霧島 彩乃

2026-04-06

前の話
第17話 過去の影 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版