夜更けの薄闇に浮かぶ慎之助の顔を見つめながら、千鶴は胸の奥でざわめく不安を押し殺そうとしていた。いつもの優しい眼差し、いつもの穏やかな声音。しかし、どこか微細な違和感が拭えない。
「千鶴、大丈夫か。顔色が良くないぞ」
慎之助の言葉に、千鶴は曖昧に頷いた。心魂草の副作用なのか、それとも別の何かなのか。現実と幻覚の境界が曖昧になっている今、自分の感覚を信じて良いものかわからない。
「ええ、少し疲れているだけです。それより慎之助さん、今夜はどうして」
「君に話したいことがあってな」
慎之助は千鶴の家の中に視線を向けた。その瞳の奥に、一瞬、冷たい光が宿ったような気がしたが、すぐに見慣れた温かな表情に戻る。
「中で話そう。立ち話では近所の目もある」
千鶴は迷った。いつもなら何の躊躇もなく家に招き入れるところだが、今夜に限って足がすくむ。だが、断る理由も見当たらない。
「どうぞ、お上がりください」
居間に通すと、慎之助は慣れた様子で座布団に腰を下ろした。千鶴は茶を淹れながら、先ほど鶴屋で発見した粉末のことを打ち明けるべきか考えていた。
「千鶴、最近変わったことはないか? 奇妙な夢を見たり、記憶が曖昧になったり」
茶碗を置く手が震えた。なぜ彼がそんなことを知っているのか。
「どうして、そのようなことを」
「実は、君の周りで不審な人影が目撃されているという報告があってな。町奉行所でも君の身を案じている」
慎之助の説明は理路整然としていたが、千鶴の胸の不安は募るばかりだった。彼の口調がいつもより事務的で、まるで役人が取り調べをしているかのようだった。
「千鶴、君が調べている薬草の件だが、危険すぎる。もうやめた方が良い」
「でも、お雪さんのことが」
「お雪のことは我々に任せろ。君は薬草師として、普通の患者を診ていればいい」
その瞬間、千鶴は確信した。目の前にいる慎之助は、いつもの彼ではない。本物の慎之助なら、千鶴の正義感や探究心を理解し、決して調査をやめろとは言わないはずだった。
千鶴は表面上は従順な様子を装いながら、密かに身構えた。座布団の陰に隠しておいた小刀に手が届く位置を確認する。
「そうですね。確かに危険すぎるかもしれません」
慎之助の表情が僅かに緩んだ。その隙を突いて、千鶴は立ち上がった。
「お茶のお代わりをお持ちしますね」
台所に向かう振りをして、千鶴は裏口に向かった。しかし、足音が後を追ってくる。振り返ると、先ほどまで座っていたはずの慎之助が、音もなく立ち上がっていた。
「どこへ行く、千鶴」
その声は、もはや慎之助のものではなかった。低く、冷酷で、どこか機械的な響きを帯びている。
「あなたは誰ですか」
千鶴の問いに、偽の慎之助は薄く笑った。
「賢い娘だ。だが、賢すぎる者は長生きできない」
男は懐から短刀を抜いた。刃が燭台の光を反射して、鈍く光る。
千鶴は裏口に駆け寄ったが、戸は外から閉ざされていた。表の戸口も同様だろう。完全に包囲されている。
「観念しろ。大人しくしていれば、苦しまずに済む」
男が一歩ずつ近づいてくる。千鶴は父の薬草を調合する台に手をかけ、そこにあった乳鉢を掴んだ。重い石製の道具が唯一の武器だった。
「鏡月斎の手下ですね」
「よく知っているじゃないか」
男の顔が歪んだ。慎之助の優しい顔立ちが、まるで悪鬼のように変貌する。これも心魂草の効果なのだろうか。人の外見を変える力があるとすれば、恐ろしい薬草だった。
その時、表戸を激しく叩く音が響いた。
「千鶴! 千鶴、無事か!」
今度こそ本物の慎之助の声だった。千鶴は歓喜の声を上げそうになったが、偽者の男が口元に指を当てて制した。短刀の切っ先が千鶴の喉元に向けられる。
「声を出すな。静かにしていろ」
外では慎之助が千鶴の名前を呼び続けている。千鶴は必死に考えた。このままでは慎之助も危険に巻き込まれる。組織の者たちが外で待ち伏せしているかもしれない。
偽の慎之助は、窓の隙間から外の様子を窺った。その一瞬の隙を突いて、千鶴は乳鉢を男の側頭部に叩きつけた。鈍い音がして、男がよろめく。
「慎之助さん! 危険です!」
千鶴の叫び声と同時に、表戸が勢いよく開かれた。本物の慎之助が駆け込んでくる。
「千鶴!」
しかし、偽者の男は思ったより素早く回復していた。短刀を振り回しながら慎之助に襲いかかる。二人の男が組み合いになり、狭い居間で激しく格闘した。
千鶴は父の薬草の中から、眠り草の粉末を探した。これを偽者に浴びせれば動きを封じることができるかもしれない。
格闘は激しさを増していた。慎之助は武術の心得があったが、偽者の男も手強い。どちらが本物の慎之助なのか、混乱の中で千鶴にはわからなくなってしまった。
「千鶴、早くここから逃げろ!」
二人の男が同時に叫んだ。千鶴は愕然とした。声まで完全に同じになっている。心魂草の力は想像以上に恐ろしいものだった。
その時、外から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。組織の手下たちが増援として現れたのだ。このままでは本物の慎之助も自分も殺されてしまう。
千鶴は決断した。眠り草の粉末を手に取り、格闘している二人の男に向かって投げつけた。白い粉が宙に舞い、二人とも咳き込みながら動きを止める。
「ごめんなさい、慎之助さん。でも、これしか方法が」
千鶴は裏口の戸を蹴破って外に飛び出した。夜の闇が千鶴を包み込む。背後では男たちの怒号が響いているが、振り返る余裕はない。
路地を駆け抜けながら、千鶴は気がついた。組織は本気で自分を始末しようとしている。もはや一人で立ち向かえる相手ではない。
しかし、逃げ続けるだけでは何も解決しない。お雪を救い、この街の人々を組織の魔手から守るためには、真実を暴かなければならない。
千鶴は夜の闇に紛れながら、次の手を考えていた。鏡月斎の正体と目的を突き止める鍵は、必ず見つかるはずだった。