夜明け前の薄明かりが格子窓から差し込む中、千鶴は自分の手を見つめていた。昨夜から続く微細な震えが止まらない。心魂草の影響が徐々に体を蝕んでいるのを感じながらも、彼女の意志は揺らがなかった。

 慎之助との口論から一夜が明けた今、千鶴は完全に孤立していた。父は亡く、唯一の理解者だった慎之助も彼女を見放した。しかし、それでも千鶴は立ち止まるわけにはいかなかった。お雪のような被害者を一人でも多く救うために。

 「鶴屋か……」

 千鶴は呟きながら、懐から小さな紙片を取り出した。昨夜、幻覚の中で拾ったものだが、それは確かに現実のものだった。茶屋「鶴屋」の名前が記された領収書の切れ端。薬草の取引に関する文字が僅かに読み取れる。

 支度を整えた千鶴は、人気のない早朝の街へと足を向けた。下町の茶屋街は昼間の賑わいとは打って変わって静寂に包まれている。軒下に干された暖簾が朝風に揺れる音だけが、石畳に響いていた。

 鶴屋は街の奥まった場所にあった。二階建ての小さな建物で、看板には可憐な鶴の絵が描かれている。お雪がここで働いていたのかと思うと、千鶴の胸に複雑な感情が湧き上がった。

 「どなたですか? まだ開店前ですが……」

 裏口を探っていると、中年の女性が顔を出した。恐らく女将だろう。千鶴は咄嗟に作り話を口にした。

 「申し訳ございません。お雪さんという方を探しておりまして……親戚の者なのですが、最近音沙汰がなく心配で」

 女将の顔が瞬間的に強張った。その表情の変化を千鶴は見逃さなかった。

 「お雪ちゃんは……もうこちらにはおりません。急に暇を取って実家に帰ったとかで」

 明らかに嘘だった。女将の目は泳ぎ、声も上ずっている。千鶴は更に踏み込んだ。

 「そうでしたか……では、お雪さんの私物などはもうこちらには?」

 「全て持って帰りました。何も残っておりません」

 女将は早口でそう言うと、千鶴を見送ろうとした。しかし千鶴は諦めなかった。懐から小さな薬包を取り出す。

 「実は私、薬草師をしております。女将さん、顔色があまり良くないようですが……胃の調子はいかがですか?」

 女将は戸惑いながらも、千鶴の差し出した薬包に目を向けた。無料で薬を貰えるという誘惑に、警戒心が緩んだのだろう。

 「そう言われてみれば、最近胃がもたれて……」

 「この薬をお湯で煎じて飲んでください。きっと楽になりますよ」

 千鶴は営業用の笑顔を浮かべながら薬包を渡した。女将が薬を受け取った隙に、千鶴は素早く茶屋の内部を観察した。階段の下に不自然な影があることに気付く。

 女将を見送った後、千鶴は茶屋の周囲を回った。建物の構造を頭に叩き込み、入り込む方法を考える。幸い、裏手の小窓の鍵が壊れていることを発見した。

 夕刻を待って、千鶴は再び鶴屋を訪れた。茶屋が賑わう時間を狙い、騒音に紛れて侵入を試みる。小窓から滑り込んだ千鶴は、息を殺して建物の内部を探索した。

 階段の下の影が気になって近付くと、そこには隠し扉があった。薄暗い中で手探りをすると、扉は意外にも簡単に開いた。地下への階段が口を開けている。

 「まさか……」

 千鶴の心臓が激しく鼓動した。階段を降りながら、彼女は懐の行灯に火を灯した。微かな光が地下室の全貌を照らし出した瞬間、千鶴は息を呑んだ。

 部屋の四方の壁という壁に、大小様々な鏡が掛けられていた。古い銅鏡から新しい手鏡まで、数えきれないほどの鏡が千鶴の姿を無数に映し出している。そして部屋の中央には、粗末な寝台がいくつも並んでいた。

 千鶴が行灯を掲げると、床に散乱している物の正体が明らかになった。乾燥した薬草の欠片、得体の知れない粉末、そして血痕らしき茶色い染み。間違いなく、ここで人体実験が行われていた。

 「これは……心魂草」

 千鶴は床に落ちている薬草を拾い上げた。紫がかった独特の色合いと、鼻を刺すような香り。間違いない。そして鏡の一枚一枚を見回すと、所々に薬草を燃やした煤の痕跡が付いている。

 鏡と薬草を組み合わせることで、幻覚作用を増幅させていたのだろう。被験者は無数の鏡に映る自分の姿を見ながら、心魂草の幻覚に支配されていく。想像するだけで悪寒が走った。

 千鶴は震える手で証拠品を集めた。薬草の欠片、怪しい粉末、そして床に落ちていた小さな簪。それはお雪のものに違いなかった。

 その時、頭上から足音が聞こえてきた。千鶴は慌てて行灯を消し、暗闇に身を潜めた。足音は次第に近付いてくる。

 「……地下の様子を見てこい。最近、妙な奴がうろついているという話だ」

 男の低い声が階段の上から響いた。千鶴の血の気が引く。複数の足音が階段を降りてくる。

 千鶴は必死に隠れ場所を探したが、地下室には遮蔽物がほとんどない。せいぜい寝台の陰に身を隠すのが精一杯だった。

 薄明かりが差し込み、二人の男が地下室に入ってきた。一人は鶴屋の関係者らしき和装の男、もう一人は見覚えのない顔だった。

 「変わった様子はないようだが……」

 「念のため、明日にでも場所を変えた方がいいかもしれません」

 男たちが部屋を見回している。千鶴は息を殺し、寝台の影でじっと動かずにいた。心魂草の影響で手の震えが止まらない。

 やがて男たちは去って行ったが、千鶴はしばらく動けずにいた。恐怖と興奮で頭がくらくらする。しかし同時に、重要な手がかりを掴んだという達成感もあった。

 地下室を後にした千鶴は、夜の街を急ぎ足で歩いた。誰かに見られているような気がして、何度も振り返る。心魂草の幻覚なのか、それとも本当に追跡されているのか、もはや判断がつかない。

 自宅に辿り着いた千鶴は、集めた証拠品を改めて検分した。特に気になるのは、正体不明の粉末だった。心魂草とは明らかに異なる成分のようで、より強力な作用を持つ可能性がある。

 「これを調べれば、鏡月斎の正体に近付けるかもしれない……」

 千鶴は呟きながら、粉末の一部を小さな皿に取った。しかし分析を始めようとした時、玄関の戸を叩く音が響いた。

 こんな夜更けに誰が。千鶴の心に嫌な予感が走った。茶屋での侵入が発覚したのだろうか。それとも……。

 戸を叩く音は次第に激しくなっていく。千鶴は証拠品を慌てて隠しながら、来訪者の正体を探ろうとした。だが返事をする前に、戸の向こうから聞き慣れた声が響いた。

 「千鶴、開けてくれ。話がある」

 慎之助だった。しかし彼の声は昨夜とは打って変わって、妙に平坦で感情がこもっていない。まるで別人のようだった。千鶴の背筋に寒気が走る。

 これは本当に慎之助なのだろうか。それとも心魂草が見せる幻覚なのか。千鶴はもはや何も信じることができずにいた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

11

茶屋の秘密

霧島 彩乃

2026-03-31

前の話
第11話 茶屋の秘密 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版