黒崎商会の若旦那・黒崎慎之助が深夜に現れた時、蒼一郎は直感的に何か重要な情報をもたらすと感じていた。だが、慎之助が持参したのは意外にも一冊の古い航海日誌だった。

「これは祖父龍之介殿のものだ。我が商会の蔵から見つけた」

 慎之助は普段の傲慢な態度とは打って変わって、真剣な表情を浮かべていた。

「なぜそれを私に?」

 蒼一郎の問いに、慎之助は苦々しい笑みを浮かべた。

「商売敵とはいえ、七つの契約の謎は我々にとっても無視できぬ問題だ。この日誌には、貴公の祖父が最後にシンガポールを訪れた際の記録がある」

 日誌を受け取った蒼一郎の手は、わずかに震えていた。祖父の直筆で記された文字が、ろうそくの光の下で浮かび上がる。

 慎之助が去った後、四人は朝まで日誌を読み込んだ。そこには龍之介の最後の航海の詳細が記されていた。

「明治十五年、秋。シンガポールの華人商会にて第三の契約書を預ける。李老人との約束、必ず果たさん」

 明華が声を震わせながら読み上げた一節に、一同は息を呑んだ。

「李老人……まさか」

「そうだ」明華の声は興奮に満ちていた。「私の祖父の名前は李永昌。シンガポールで商会を営んでいた」

 運命の糸が絡み合っているのを感じながら、蒼一郎は決断を下した。

「シンガポールに行こう。祖父の足跡を辿り、第三の契約書を見つけるんだ」

 翌朝から、四人の海外航海準備が本格的に始まった。まず向かったのは、横浜港に近い古い書店だった。店主の老人は龍之介を知っており、東南アジア航路の詳細な海図を提供してくれた。

「龍之介さんは何度もここに立ち寄られました」老人は懐かしそうに語った。「いつも『世界は思っているより小さく、しかし夢は思っているより大きい』とおっしゃっていました」

 マリアは海図を熱心に研究し、最適な航路を検討していた。彼女の航海術の知識は男性船員たちをも驚かせるほどで、港の船乗りたちからも一目置かれていた。

「季節風を考慮すれば、今の時期なら南西航路が最適ね。途中、香港で補給を行い、そこからシンガポールまで一気に」

 鉄蔵は船の手配に奔走していた。海賊時代の人脈を活用し、信頼できる船と乗組員を確保する必要があった。

「蒼一郎、いい船を見つけた。『白鷺丸』という名の快速船だ。船長も信頼できる男だ」

 一方で蒼一郎は、商会の業務を留守中に任せる体制作りに追われていた。火事からの復興作業と並行して、重要な取引先への説明回りも欠かせなかった。

 ある日の夕方、四人は港の倉庫街を歩きながら今後の計画を練っていた。夕日が海を染める中、明華が思いがけない提案をした。

「実は、シンガポールに叔父がいる。父の弟で、李商会の現在の当主だ。彼なら祖父の話を詳しく知っているはずだ」

「なぜ今まで黙っていた?」マリアが問いかけた。

 明華は複雑な表情を見せた。

「父の死後、親族との関係は複雑になった。でも、今なら違う。我々には明確な目的がある」

 その夜、蒼一郎の屋敷で最終的な準備会議が開かれた。地図を囲みながら、四人は航海の詳細を詰めていく。

「シンガポールまでの航海日数は、順調なら二週間」マリアが指差しながら説明した。「ただし、季節風の変化や海賊の出没地域を避けるルートを取る必要がある」

「海賊か」鉄蔵が苦笑いを浮かべた。「昔の仲間に出会うかもしれんな」

「資金面はどうだ?」蒼一郎が現実的な問題を提起した。「航海費用、滞在費、それに万一の場合の予備資金も」

 明華が計算書を広げた。

「商会の現在の資金状況なら、三ヶ月間の航海と滞在は可能です。ただし、帰国後の運転資金も考慮する必要があります」

 話し合いが深夜に及ぶ中、一通の手紙が届けられた。差出人は黒崎慎之助だった。

「海堂君。君たちの航海計画を聞き及んだ。実は我が商会にも、シンガポール航路に興味がある。競争相手となるか、それとも協力相手となるかは君次第だ」

 手紙の最後には、さらなる情報が記されていた。

「七つの契約に関わるもう一つの手がかりを入手した。明日の夜、港の『海風亭』で会おう」

 四人は顔を見合わせた。黒崎商会との関係は複雑だったが、七つの契約の謎を解く上で、彼らの情報は貴重だった。

「罠かもしれません」明華が警戒心をあらわにした。

「だが、見過ごすにはもったいない情報だ」鉄蔵が反対した。

 蒼一郎は窓の外の夜空を見上げた。星々が航海への道しるべのように輝いている。祖父龍之介もこの同じ星空を見上げながら、遠い海への想いを募らせたのだろう。

「行こう」蒼一郎が決断を下した。「ただし、慎重に。我々には失うものが多すぎる」

 マリアが立ち上がり、海図を丁寧に折りたたんだ。

「シンガポールへの航海、いよいよ現実のものとなってきたのね」

 翌日の準備を終え、四人がそれぞれ休息につく前、蒼一郎は祖父の書斎で一人、龍之介の遺した書類を整理していた。その中に、まだ見ぬ一枚の手紙を発見した。

 封筒には「蒼一郎へ」と記されている。祖父が自分のために残してくれた、最後のメッセージだった。震える手で封を切ると、そこには予想もしなかった内容が記されていた。

「我が孫よ。この手紙を読む頃には、お前は七つの契約の謎に気づいているだろう。シンガポールへの旅路は危険が多い。だが、恐れることはない。真の宝は契約書ではなく、その過程で育む人との絆にある。そして忘れるな、黒崎家は敵ではない。彼らもまた、同じ理想を追う仲間なのだ」

 手紙の最後には、シンガポールの李商会の詳しい住所と、接触の暗号が記されていた。

 蒼一郎は深く息を吐いた。祖父の計らいの深さに改めて感謝しながら、明日の黒崎との会談で何が明らかになるかを考えていた。七つの契約の謎は複雑に絡み合い、そして予想以上に多くの人々の運命を結びつけているのかもしれない。

 港から聞こえる汽笛の音が、遠い海への憧憬をかき立てた。

潮騒の商会と七つの海

8

初代の足跡

潮見 航

2026-03-28

前の話
第8話 初代の足跡 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版