クロフォード邸での家族団らんのひと時が過ぎ、翌朝、蒼一郎は書斎に呼ばれた。朝の陽光が差し込む重厚な部屋で、クロフォード卿は机上に広げられた古い羊皮紙を見つめていた。
「これが第六の契約書ですな」
蒼一郎の胸が高鳴った。昨夜、マリアから家族の歴史について聞いた際、クロフォード家が代々東インド会社との深い関わりを持っていたことを知っていた。
「拝見させていただけますでしょうか」
クロフォード卿は頷き、羊皮紙を蒼一郎の前に置いた。そこには確かに見覚えのある印章が押されている。海堂商会の創業者と、英国東インド会社との間で交わされた茶葉貿易に関する契約だった。
「これは…セイロン島の茶葉に関する独占的取引権ですか」
「その通りです。あなたの曾祖父は実に先見の明がありました。当時はまだ緑茶が主流だった日本市場に、紅茶の普及を見越していたのです」
マリアが書斎に入ってきた。男装ではなく、淡いブルーのドレス姿の彼女は、いつもとは違う上品さを纏っていた。
「おはようございます、海堂さん。父から聞きました。この契約のことを」
「マリア」蒼一郎は振り返った。「君の家族が、こんなにも我が商会と深い縁があったとは」
クロフォード卿が立ち上がり、暖炉の方へ歩いた。
「しかし、この契約を履行するには、いくつかの困難があります」蒼一郎は契約書を読み返しながら言った。「まず、現在のセイロン島の政情。それに、本国政府の貿易政策の変化」
「おっしゃる通りです」クロフォード卿が振り返った。「東インド会社は既に解体されており、この契約の有効性を認めさせるには、政府との直接交渉が必要になるでしょう」
その時、鯨岡と明華が書斎に現れた。
「おう、蒼一郎。なにやら難しい顔をしてるじゃねえか」
「鯨岡さん、明華。ちょうど良いところに」蒼一郎は彼らに契約書を見せた。「第六の契約が見つかりました」
明華が契約書を覗き込み、流暢な英語で内容を確認した。
「なるほど、セイロン島の茶葉ですか。確かに困難な交渉になりそうですね。でも、不可能ではありません」
「どういう意味だ?」鯨岡が眉をひそめた。
「上海での経験ですが、英国商人たちの間で、日本の茶道文化への関心が高まっています。単なる茶葉の輸入ではなく、文化交流という側面を前面に出せば」
マリアの目が輝いた。
「それは素晴らしいアイディアね。父、いかがでしょうか」
クロフォード卿は顎に手を当てて考え込んだ。
「文化交流…確かに政府も推進している政策です。特に日英同盟の機運が高まっている今、これは追い風になるかもしれません」
蒼一郎は立ち上がり、窓の外のロンドンの街並みを見つめた。
「しかし、相手は大英帝国です。一商会が太刀打ちできるような相手ではありません」
「だからこそ、我々クロフォード家の出番というわけです」
全員がクロフォード卿を見つめた。
「私には議会にも政府にも古い友人がおります。マリア、お前が選んだ仲間たちのために、父として、そして一人の英国紳士として、力を尽くしましょう」
マリアの頬に涙が伝った。
「父様…」
「ただし」クロフォード卿の表情が引き締まった。「これは単なる商取引ではありません。両国の友好関係に資するものでなければ、私も協力はできません」
蒼一郎は深く頭を下げた。
「もちろんです。我々の目指すところは、単なる利益追求ではありません。創業者の理念である国際協調の精神に基づき、両国の文化と経済の架け橋となることです」
「よろしい」
その後の一週間は、まさに外交戦ともいえる日々だった。クロフォード卿の紹介で、蒼一郎たちは政府高官や議会関係者と面会を重ねた。マリアは通訳として、明華は商業面での助言者として、鯨岡は日本の武士道精神の体現者として、それぞれが重要な役割を果たした。
交渉の山場は、植民地省での最終会議だった。重厚な会議室で、高官たちを前にして蒼一郎は立ち上がった。
「諸氏にお願いしたいのは、単なる貿易契約の承認ではありません」蒼一郎の声は静かだが、確固とした信念に満ちていた。「これは、新たな時代における日英両国の友好の象徴となるべきものです」
「具体的には?」一人の高官が問うた。
「セイロン島の最高級茶葉を日本に輸入し、それを日本の茶道文化と融合させて、新たな文化的価値を創造いたします。そして、それを再び世界に向けて発信するのです」
明華が補足した。
「既にアメリカ西海岸では、日本式の茶室を併設したティーハウスが注目を集めています。これは単なるビジネスモデルではなく、東西文化の融合という、時代の要請に応えるものです」
会議室に緊張が走った。しばしの沈黙の後、植民地大臣が口を開いた。
「興味深い提案です。しかし、契約の条件について、いくつか修正が必要でしょう」
交渉は深夜まで続いた。しかし、最終的に合意に達したとき、蒼一郎たちの疲労は達成感に変わっていた。
「やりました」明華が小さく拳を握った。
「これで第六の契約も完了か」鯨岡が安堵の息を吐いた。
マリアはクロフォード卿に駆け寄った。
「父様、本当にありがとうございました」
「いや、礼を言うのは私の方です」クロフォード卿はマリアの頭を優しく撫でた。「お前たちの姿を見て、真の国際人とは何かを学ばせてもらいました」
蒼一郎は夜のロンドンの街を見つめながら思った。残すは最後の契約、第七の契約のみ。しかし、それが最も困難な道のりになることを、彼はまだ知らずにいた。
「さあ、次は何処へ向かう?」鯨岡が問うた。
蒼一郎は仲間たちを見回し、静かに微笑んだ。
「最後の契約は…恐らく、我々が最も想像していなかった場所にあるでしょう」
ロンドンの夜風が、新たな冒険の予感を運んでくるかのように、一行の頬を撫でていった。